川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

個をないがしろにしない全体論は可能か——『全体論と一元論』というタイトルについて

私の単著『全体論と一元論——ヘーゲル哲学体系の核心』が、今月末に公刊されます。
全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

  • 作者:川瀬 和也
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
 

 「買ってください!あるいは買わなくてもいいけど図書館などで読んでください!あるいは読まなくてもいいけど積んでおいて機が熟すのを待ってください!」と言うだけでは芸がないので、ここでは『全体論と一元論』というタイトルについて少し述べてみたいと思います。

 
もともと本書は、「ヘーゲル『大論理学』「概念論」の研究」という博士論文に大幅な改稿を加えたものです。この悪く言えば無味乾燥なタイトルは、ある意味では博士論文としての堅実さを狙ったものでもありましたが、同時に、私自身が自分の研究を通じて伝えるべきメッセージを簡潔な形でまとめ損ねていたことを表してもいました。改稿にあたって、もちろん細かな論点について様々なコメントをいただき、大幅な修正を加えました。しかし同時に考えさせられたのは、本書全体を貫くメッセージは結局のところ何なのか、ということでした。
 
改稿を進める中で、改めてキーワードとして浮上してきたのが、「全体論」でした。ヘーゲルにおける「全体論」という主題は、アンビバレントな響きを持っています。いわゆるポスト・モダン思想においては、ヘーゲル全体論は目の敵にされたようなところもありました。様々なものの些細な、しかし大切な違いを無視して「全体」に取り込んでしまう、差異を無視して全てを同一性のもとに置こうとする、そんなイメージでヘーゲルが語られるのを聞いたことがある方もいるでしょう。ときには、「全体論」が「全体主義」と重ねられ、悲惨な戦争の記憶と結びつけられることすらあります。私には個々のヘーゲル論の妥当性を検討する力量はありませんが、しかし、大まかにこのようなイメージでヘーゲルが語られていたということを指摘するのは、少なくとも的外れではないでしょう。
 
他方で、英語圏の哲学においては、「全体論」が見直され、肯定的に語られることが増えてきました。戦後の分析哲学には、クワインの「経験主義の二つのドグマ」を記念碑とする、全体論という考え方を洗練させようとする流れが存在していました。英語圏におけるヘーゲル再評価の流れにおいても、マクダウェルやブランダムのヘーゲル論において、「全体論」は最も重要なキーワードの一つとなっています。フランスにおける全体論の不人気とは対照的と言っていいかもしれません。
 
このような議論状況の中でヘーゲルを、しかもヘーゲル論理学を論じるにあたって、「ヘーゲル全体論」とは一体何だったのか、という問題に取り組むことが、改めて課題として浮上してきました。私自身、ブランダムやマクダウェルにも影響を受けながらヘーゲルを読んできましたから、ヘーゲル全体論に哲学的な重要性が見いだせるはずだという確信を持っていました。そして、もしこの考え方に見るべきところがあるとするならば、それが単に個を無視し、差異を同一性に還元するだけの思想であるはずがない。むしろヘーゲルは、「個をないがしろにしない全体論」を打ち立てるという課題に取り組もうとしていたのではないか、と思われてきました。
 
したがって本書で私が挑戦したのは、ヘーゲル論理学を、「個をないがしろにしない全体論」を打ち立てようとするプロジェクトとして再構成することです。私の再構成が成功していないという評価はもちろんあるでしょう。また、私の再構成が成功していたとして、それを読んでもなお、「個をないがしろにしない全体論」というプロジェクトは破綻している、と診断する読者もいるかもしれません。それでも、ヘーゲルが初めから個をないがしろにするつまらない哲学体系を作ろうとしていたわけではない、ということについては、どうにか説得できるよう努力しました。
 
本書のタイトルのもう一つの構成要素である「一元論」についても、同様の状況を指摘できるでしょう。この考え方も、やはり一つの原理、同一性に全てを還元しようとする態度とも理解されかねないからです。しかし他方で、ここでもまた英語圏の哲学においては、「自然主義」と呼ばれる一元論的な態度が非常に有力なのものとなっています。自然主義には「自然」をどう理解するか、また、何に関して自然主義を採用するのかによって様々なバリエーションがありますが、共通するのは、「自然」なものによって全てを説明するのだ、という発想です。自然主義とは、何らかの意味での、自然一元論にほかなりません。
 
ヘーゲルは、二元論的な考え方を徹底的に避けようとしました。このヘーゲルの態度は「媒介」や「統一」の思想としてしばしば特徴付けられます。本書では、心身二元論に抗する、「生命」に着目した一元論の構想を、ヘーゲル論理学から取り出すことを試みました。この試みには様々に綻びもあると私は考えています。しかし、当時の未発達な生物学というリソースを最大限に活用して、一元論というプロジェクトを完遂しようとしたヘーゲルの姿から学べることは多いはずです。
 
魅力的な全体論と一元論を打ち立てることを目指した哲学として、いま、ヘーゲル哲学を再び正面から受け止めること。『全体論と一元論』というタイトルは、これが本書の課題であるということを示すためのものです。読者の皆さんには、私の、そしてヘーゲルのそのような挑戦を感じて頂けたらと思います。