川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

大学での対面授業を再開すべきでない7つの理由

昨年度、多くの大学で対面授業が禁止され、オンラインでの授業が実施された。感染対策には一定の効果があったのではないかと思うが、キャンパスライフが送れないという学生からの不満もあった。ニュースやインターネット上でも議論が起こっていたため、ご存じの方も多いことと思う。
 
そして本年度。文部科学省は、大学に対面授業を実施するよう強く求めている。「安易にオンラインに流れることがあってはならない」という、文部科学大臣の高圧的な発言まであり、ますます態度を硬化させている。(この発言は現場の苦悩をあまりにも無視した発言であり、大いに士気を下げるものであったと思う。)ともあれ、こうした一連の求めに応じて、多くの大学が「原則対面授業」の方針を打ち出し、実際に対面授業が実施されている。緊急事態宣言の発出と延長もあり、大学現場では大きな混乱が生じている。
 
一方で、周知のとおり、第4波と言われる感染拡大は現在も続いている。多くの地域で過去最高の感染者数が報告され、全国的に爆発的な感染が生じつつある。以前よりも感染しやすい、若者も重症化しやすいといった、連日マスコミをにぎわせている変異株絡みの不穏な情報も多い。(ただし、十分なデータ解析はなされていないのが現状だろう。)
 
私自身は、現状で対面授業を実施することには強く反対の立場である。もちろん組織の一員として雇用され生活の糧を得ている以上、大学全体の方針には従わざるを得ない面もある。しかし、これほどの感染拡大の中で対面授業を強行することは不合理であり、人道的にも問題があるとも考えている。以下、その理由を詳しく記す。
 
理由1 学生の健康と命を守る
大前提として確認しておくが、対面授業には感染の危険があり、遠隔授業にはない。そして、感染の危険があるということは、健康が脅かされる危険があるということである。重い後遺症が残るという情報もある。また、重症化して最悪の場合命を落とすリスクがある。
 
キャンパスライフが送れない学生が気の毒だとは私も当然思う。なるべく学生が孤立しない支援をすべきだとも思う。しかし、命を守ることはキャンパスライフを守ることに優先されるべきだ。まずはこの点を確認すべきであろう。学生たちが社会全体のために、あるいは高齢者の命を守るためにとばっちりを受けているという論調もある。確かに昨年度のうちはそれに近い側面もあっただろう。しかし現在ではそれ以上に、学生自身の命と健康を守ることが喫緊の課題である。変異株の拡大で、なおさら学生たち自身の命に危険が迫っている。
 
理由2  「攪拌」効果
大学での対面授業は、大学生の他の活動や、あるいは小中学校・高校、職場と比べても、感染リスクが格段に高いように思える。なぜなら、対面授業は、学生たちを「攪拌」してしまうからである。
 
小学校や中学校、高校には学級がある。そして、基本的には学級を単位として授業が実施される。一部移動教室や行事などはあれど、多くの授業で席は固定されている。また、多くの職場でも席は固定されている。席を固定しない「フリーアドレス」が増える兆しがあったにせよ、主流とはいいがたく、また感染防止の観点から見直しの動きもある。昼食時などに、他の部署との接触をなるべく減らすような動きもある。
 
これに対して、大学には学級という単位がない。また、多くの大学では、選択授業の割合が非常に多い。(資格取得のために大量の必修科目がある医歯薬系などはその限りではないが。)選択科目が非常に多いということは、1コマごとに授業に集まる顔ぶれが変わるということだ。
 
これは、感染防止と非常に相性が悪い。キャンパスに通う学生のうち一人が感染していたとする。この学生は毎時間別の学生と接触する。また、この学生と接触した学生も、毎時間別の学生と接触する。したがって、一人感染していれば、その日登校している1000人という規模のすべての学生に感染のリスクが広がりかねない。
 
さらには、昼食をはさんで授業がある場合には、多くの学生が学食や近所の食堂に集まって食事をする。全員が同じ場所に集まって食事をせざるを得ない状況が生じるのである。これもまた、感染防止の観点からは最悪であろう。
 
首都圏や関西の大学では、県境をまたいで通学する学生も珍しくない。しかもその数は、高校までとは比較にならないほど多い。こうした点に関して、文部科学省や各大学はどのように考えているのだろうか。
 
平時であれば、授業を選択できる仕組みや、学食に多くの学生が集まる仕組みは、キャンパスライフの大きな魅力である。これにより偶然の出会いも生まれて、交友関係が拡大するということもあるだろう。しかし、現状においては、このシステムにより、小中学校や高校、また多くの職場と比べても、大学での対面授業は、感染リスクが非常に高い。
 
理由3  学習の質
対面授業の方が、学習の質は高まるのだろうか。最終的にはデータを基にした研究が進められるべきであるが、少なくとも現時点で、対面授業の方がオンライン授業より効果的であると結論づけることはできないだろう。しかも、そのメリットが感染リスクを考慮してもなお覆らないほど大きいと言えるかというと、なお心許ない。
 
注意してほしいのは、ここで問題になるのが、オンライン授業と、2019年度までに行われていた通常授業の比較ではないということだ。実際に行われるのは、通常授業ではなく、「感染対策をした対面授業」である。オンライン授業にはもちろんさまざまな制約があるが、「感染対策をした対面授業」にはそれに劣らず様々な制約がある。
 
最も大きな問題は、感染対策をしながらの対面授業では、ペアワークやグループワークのような学生同士の相互作用をなるべく減らさざるを得ないということである。これを減らすということはすなわち、家で動画を見たり本を読んだりするのに限りなく近い授業しかできないということだ。危険を冒して対面授業を実施する意味は半減してしまう。逆に、対面ならではの良さを出そうとすると、それは大きな感染リスクを伴う。100人の学生に、2メートルの距離を開けて、ペアで話してもらうことを想像してほしい。声が聞こえないから、大声を出さざるを得ないだろう。ほかのペアも大声を出すから、余計に声が大きくなる。これを避けるなら、やはりペアワークそのものを中止するしかない。
 
また、オンライン授業にはオンライン授業ならではの良さもある。実施形態によっては動画を何度も見直すこともできる。個人差があるが、チャットの方が質問しやすい学生もいるだろう。グーグルスライドなどを活用したグループワークも、オンラインならではの効果的な方法である。これに対して、「感染対策をした対面授業」には、「ならではの良さ」はない。どうあがいても、通常の対面授業の劣化版にしかならないのは明らかである。この点でも、オンライン授業よりも感染対策をした対面授業の方が学習効果が高い、という判断には、首をかしげざるをえない。
 
理由4 キャンパスライフ
対面授業が叫ばれる最大の理由は、「キャンパスライフ」であろう。しかしこれにも疑問がある。なぜなら、「感染対策をした対面授業」は、これまでのキャンパスライフとは似ても似つかないものになると思われるからだ。この点に関しては、文科省の主張は混乱している。
 
感染対策を徹底するなら、ただ授業が対面になるだけで、それ以外のコミュニケーションはすべて禁止すべきだろう。すると、キャンパスライフはこうなる。授業中は、ただ座って黙って聞いてもらう。ペアワークやグループワークは行わない。休み時間には友達と会話をしてはならない。空きコマも同様である。空き教室での談笑などもってのほか。じっと黙って指定の場所で待機してもらう。食事も友達とは取れない。一人で、誰ともひとことも会話せず食事を済ませ、しかも学食の席数が足りないから大急ぎで食べて移動してもらう。サークル活動ももちろん不可能である。これが求められていたキャンパスライフだろうか? 
 
そうではないのだとすると、感染対策を「徹底しない」ことが求められていることになる。休み時間や空きコマには友達と少しくらい喋っても構わない。昼食くらいは一緒に食べてもよい。このように軽く考えられているのだろうか。対面授業を実施することは実質的にこれらのコミュニケーションを推奨していることになるのではないか。ちなみに実際の学生の様子を見ていても、当然のように休み時間には喋っている。これを禁止するなどできない。
 
つまり、「感染対策を徹底したキャンパスライフ」などありえないのである。学生を大学に来させる以上、「徹底した感染対策」などできない。もしできたとすれば、そこには「キャンパスライフ」はない。オンラインで映像を見るのとあまり変わらない授業があるだけである。
 
理由5 アクティブ・ラーニング
政府関係者や医療関係者の発言を聞いていると、「授業は黙って聞くだけだから感染リスクが低い」と言われることがある。しかしこれは現在の大学教育を全く知らない人の発言に思える。昨今の大学は、学生が黙って聞くだけの授業を減らすべく努力してきた。
 
文部科学省はずっと「アクティブ・ラーニング」を推奨してきた。アクティブ・ラーニングとは、簡単に言えば、ペアワークやグループワークを取り入れて「学生が喋る」タイプの授業のことだ。
 
つまり、最近の大学では、授業中に学生は大いに喋るのである。演習系の科目では、教員が喋る時間より学生が喋る時間の方が長い。例えばライブやコンサートの客よりも、授業を受けている学生の方がよくしゃべる。
 
講義系の科目であれば、例年と内容を変えてペアワークを減らすことも可能である。しかし、演習系の科目ではそれは不可能だ。カリキュラム上、グループワークを前提として科目が設定されているためだ。(たとえば話し合いそのものの練習をするような授業がある。)換気とマスクありでの打ち合わせでも感染するという報道もあったが、そうであれば、大学の授業でも確実に感染は起こる。
 
理由6 「自粛要請」との違い
現状、多くの人が感染対策のために自由を制約されている。飲食店の営業自粛をはじめ、さまざまな行動を自粛するよう呼びかけられている。「自粛要請」が長引くにつれ、これに対する反発も大きくなっている。つまり、感染対策のような目的のためであれば自由を制限することが許されてよいのか、という問題が生じている。一般に、パターナリズム的な自粛要請と個人の自由の関係は公衆衛生の分野における非常に難しい問題であり、今回もそれが前景化している。
 
一見すると大学の対面授業とオンライン授業の問題も、これと同じ構造のように見えるかもしれない。すなわち、オンライン授業を実施することは、学生に自粛を促すことであり、対面授業を実施することは、学生に通学する自由を認めることであるように見えるかもしれない。
 
しかし、実際には、この二つの問題はパラレルになっていない。なぜなら、対面授業は通学の自由を認めることではなく、学生に通学を強制することだからである。例えば感染が怖いといった理由で登校したくない学生も、対面授業が実施されれば登校せざるをえない。登校しなければ、単位を落として留年することになるからだ。自粛要請をやめれば、飲みに行きたい人は行けるようになるが、行きたくない人は無理にいかなくてもよい。しかし、オンライン授業を対面授業に切り替えたら、大学に来たくない学生も来なければならなくなる。大学に来たい学生に、来る自由が認められるわけではない。これは根本的な違いである。
 
自由を尊重するなら、対面授業ではなくハイブリッド(ハイフレックス)授業を実施すべきだろう。しかし、これもあまりうまくいっていない。教員は人間なので、画面と教室の両方を一度に見ることはできない。オンラインの学生にとっても、対面の学生にとっても、授業の質が大きく落ちることを受け入れてもらうしかない。また、選べるようにすると多くの学生がオンラインを選び、対面での授業が成立しにくくなるという話も聞く。理想を言えば教員数を二倍に増やし、同じ授業をオンラインと対面でそれぞれ開講するべきだろうが、そんな予算も人材もないことは明らかだ。
 
理由7 鬱には治療法があるが、コロナにはない
一日中家にいることは健康に悪い。私もずっと家に閉じこもっているのは苦手なほうだから気持ちはわかる。長期間のオンライン授業が続けば、精神面に問題をきたしたり、体調に影響することもあるだろう。これはもちろん非常に重要な問題である。大学としても、この面で学生の健康を守る方策を考えるべきである。
 
しかし、その方策として対面授業を行うというのはあまりにも短絡的である。このような立論では、オンライン授業による健康リスクと、対面授業による健康リスクを天秤にかけることになる。どちらも問題になっているのは、同じ「学生の健康」だ。そしてどちらのリスクが大きいかといえば、対面授業の方だと言わなければならないように思える。
 
オンライン授業によって生じうる病気として、鬱病を考えよう。うつ病はときには人の命を奪うこともある恐ろしい病気で、決して軽くみられるべきではない。しかし、COVID-19と比べたときにどちらが恐ろしいかということになれば、話は別である。第一に、うつ病は伝染病ではない。指数関数で増えることはない。第二に、進行も比較的ゆっくりである(というより、COVIDの進行が異常に早いと言うべきだが)。昨日まで元気そうだった人がいきなり生死の境をさまようということはない。第三に、うつ病は今ではよく知られた病気であり、薬やその他の治療法の研究も進んでいる。一方でコロナウイルス感染症には有効な治療がいまだ確立されていない。つまり、うつ病の方が、予防や治療の対策がコロナよりずっとしやすい。したがって、どちらの健康リスクがより大きいかといえば、この観点からみても、対面授業の方であろう。
 
注記:声を上げた学生は悪くない
私はここまで、対面授業を実施すべきではないと考える理由を述べてきた。この意味で、対面授業再開を訴える学生たちの主張を批判してきた。しかし、当人たちが苦しみを訴えていることそれ自体を非難するつもりはない。苦しみを発信することには意義がある。この感染拡大の状況下での対面授業という方法には賛同できないが、しかし苦しみを軽減するための他の方策が必要であると気づかせてくれたのは、学生たちの訴えである。
 
他方で、学生の訴えだけを見て、総合的な利害調整を行わない文部科学省には大きな問題があると考える。文部科学省は、学生からの対面授業再開を訴える声が大きかったことを、強硬に対面授業実施を推進する理由に挙げている。しかし、この判断には問題がある。対面授業を求める声が、遠隔授業延長を訴える声よりも多く寄せられるのはある意味で当然だ。なぜなら、昨年度は対面授業がごく少数しか行われていなかったからだ。昨年度、オンライン授業による苦しみや健康被害は現実のものであった。一方、対面授業による感染拡大は未然に防がれたために、現実のものとはなっていなかった。対面授業によって感染した学生やその家族から遠隔授業を求める声が上がるためには、実際に多くの学生が感染しなければならないだろう。感染が防がれたために、そうはならなかったのだ。
 
さらに重要なことだが、「大学で感染が増えて、学生が亡くなり始めてからでは遅い」のだ。「実際にコロナウィルスに感染した学生が増えて、そうした学生から多くの声が送られてきたら考えます」といって済ませるのは、権力を持つ者として責任ある態度とは到底言えない。実際に寄せられた声に耳を傾けることはもちろん大切だが、それ以外のリスクをも総合的に判断して利害を調整することが、決定権を持つ者の仕事である。この点で文部科学省は機能不全に陥っているように見えてならない。感染者数を単なる「数字」とみて、その後ろに実際に病で苦しみ、命をリスクにさらしている学生が存在することへの想像力を欠いているのではないだろうか。
 
結論
変異株による感染がますます拡大している現在の状況下では、対面授業のメリットをデメリットがはるかに上回っているように思える。キャンパスライフはもちろん大事だが、命には代えられない。対面授業を始められない状況を生み出しているのはパンデミックそのものであり、強いて言えば感染拡大を防げなかった政府の対応の失敗である。社会が元通りにならなければ、キャンパスライフも元通りにはならないのだ。こうした鬱憤の全てが、「オンライン授業」に不当に押し付けられ、学生の命を守るというもっと重要なことがおろそかにされているのではないだろうか。

読書会における「グラウンドルール」の重要さ

哲学を学ぶ最も効果的で楽しい方法に、読書会を開催することがある。私も多くのことを読書会から学んだ。しかし、読書会はときには失敗してしまうこともある。だんだんと参加者のモチベーションが下がるのがわかるようになり、一人、また一人と集まらなくなる。スケジュールが合わない日が増え、最後にはなんとなく立ち消えになる。
 
こういった事態をなるべく防ぐためには、参加者の間でビジョンを共有しておくことが重要だ。そもそもどんな目的でその文献を読むのか。必要があって最後まで読み切りたいのか、それとも、読み切れなくてもよいから、滋味が出るまで噛みしめるような精読がやりたいのか。外国語文献であれば、語学の学習にどの程度重きを置くのか。もっと言うと、語学の能力が劣る参加者にどの程度合わせる用意があるのか。(このようにいったからと言って、語学が苦手な方にも恐れをなさないでほしい。読書会はそもそも、その言語の初学者の語学学習支援を兼ねている場合もある。そのような会では、初心者はもちろん歓迎される。)
 
会議のファシリテーションのための「グラウンド・ルール」という考え方も、読書会でも応用が利くだろう。どのような発言が推奨されるのか。何でも述べて良いのか。大演説をぶつことは許容されるのか。沈黙はどれくらいの時間続いても良いのか(10分以上沈黙が続く読書会もある)。一回にどのくらい進みたいのか。大学院のゼミなどと違って、参加者の属性がバラバラの読書会では、これらを名文化しておくことは有効だろう。
 
読書会におけるグラウンドルールとして私がおすすめしたいのは、「必要不可欠な場合を除いては空中戦を控えて、本文に書かれていることをもとに議論しよう」というものだ。「空中戦」とは、読んでいるいる本文の中で直接言及されない事項について、読書会中に議論することを言う(たしか、数回だけ出席した熊野純彦先生のゼミで使われていた言い回しだ)。これがあまりにも多いと、ほとんどの参加者は議論についていけなくなり、モチベーションが大幅に低下してしまう。とはいえ、これを一律に禁止するのもよくない。専門的な文献や古い文献になればなるほど、暗黙に前提されている知識があり、それを補いながら読まなければ正確に理解できないということが起こるからだ。
 
経験的には、自分がその分野に十分詳しく、かつ本文の理解に決定的に資するという確信がある場合にのみ、「空中戦」を許容するのがいいように思われる。言い換えると、「初心者にはおすすめできない」ということだ。「もしかすると関係あるかもしれない」くらいで話し始めると、実は全く関係がなかったということがしばしば起こる。異なる文献と関連付けるためには、知識やスキルが必要なのだ。(もちろんたまにはチャレンジして失敗することもあってよい。話してはみたがあまり関係がなくなってしまった、という失敗は私にもある。なるべくそのような失敗をしないようにしよう、と意識するだけでも、読書会の雰囲気が大きく違ってくる。)
 
では、初心者はあまり発言すべきではないのかというと、そんなことは決してない。自分が不案内な分野の読書会では、なるべく本文に即した疑問を提示するように心がけよう。「この言葉の意味がわからない」のような初歩的な疑問が、全員にとって本文の理解を促進するようなよい質問になることもある。そうでなくても、本文に即している限りで、その疑問にはほとんど全員が必ず興味を持つはずだ。参加者はその本を理解するためにわざわざ集まっているのだから。
 
なお、読書会については次の二つの記事も合わせて読むことをすすめたい。
 
 

philcul.net

 

note.com

 

 

※関係ありませんが、先月出た著書の宣伝です。この本の読書会をしていただいているようで、とてもありがたいです。

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

  • 作者:川瀬 和也
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
 

 

哲学書はなぜ間違いだらけでなければならないのか

図書館や書店で哲学書の棚の前に立つと、不思議な気持ちになることがある。ここにこれだけたくさんの本があるけれど、ここに書かれていることはほとんどが間違っている。同じテーマについて書かれた、何千円もする重厚な専門書を2冊選んで手に取ってみる。すると、全く逆のことが書かれていたりする。哲学という分野に特有とまでは言わないが、しかし哲学書に特にこの傾向が強いとは言えるだろう。
 
繰り返すが、哲学書に書かれていることは、ほとんどが間違っている。しかも、専門書になればなるほど、多くの間違いが含まれている。これは、私の本や、私以外の著者によって書かれた哲学書を読む方に、どうしても知っておいてほしいことである。
 
なぜそんなことが起こるのか。それは、間違うリスクをとることなしには、哲学的に意味のあることを言うことはできないからである。もちろんわざと間違いを言うわけではない。哲学者たちは皆、誠実に、自分が正しいと信じていることを書いている。しかし、それが十中八九間違っているということも、同時に確信している。学術書を公刊することを「世に問う」とは言うのもこのためだ。学術書を出版するということは、意欲的な読者に間違いを見つけてもらい、それを通じて学問そのものを発展させようとすることなのである。
 
したがって、哲学を学ぶということは、膨大な間違いのサンプルを学ぶということである。苦労して学び覚えたことのほとんどが間違っていたら、普通は嫌だろう。しかし、哲学においてはそれは普通のことだ。哲学を学ぶ際に、真理を直接に知ることはできない。これまでどのようなことが真理だと主張されてきたか、現在はどのような議論があるのか、ということを知ることができるだけである。
 
ただし、「哲学には答えがない」というのも間違っている。答えにたどり着くことは難しく、ほとんどの論者が失敗しているが、それでも哲学者たちは大真面目に答えを目指している。そうでなければ、哲学者たちは全員茶番か八百長をやっているということになってしまうだろう。もちろん細かいことを言えば、問題設定がうまくいっていないために実際に答えが存在しない場合もある(このような場合に問いは解決されず解消されるというような言い回しがなされたりする)。あるいは、実際に答えが出たり、哲学以外の分野で扱われるようになった問いもある(例えば、この世界は何からできているか?という古代ギリシャの哲学者たちの問いを現代において引き受けているのは、化学者や物理学者たちであろう)。しかし、現在哲学で問われている多くの問いは、答えがあるはずなのにまだ見つかっていないと信じられている問いである。
 
したがって私の本にも、多くの間違いが含まれているだろう。そのようなものを世に出すことは非常に恐ろしいことだ。それでもなお、少しでも人類の知識を増やすことに貢献できればと思うがゆえに私たちは本を書く。このようなことは大前提であるから、わざわざ本に書かれてはいない。しかし、自分が本を出すにあたって、改めて明示的に述べておきたかった。
 
なお、もし私の本や他の誰かの本に間違いを見つけたら、できれば優しく指摘してほしい(学術論文の形をとる場合にはその限りではないが)。自分が書いていることのほとんどが間違っている可能性を受け入れていたとしても、やはり自分の間違いを認めるのは楽しいことばかりはない。それでも哲学者が批判を歓迎するのは、批判者も自分と同じ、真理の探究という目的を共有していると信じるからこそである。議論の目的は相手を論破することではなく、協力して真理に近づくことである。
 

 ※宣伝です。本が出ました。ヘーゲル論理学の研究書です。

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

  • 作者:川瀬 和也
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
 

 

※記事タイトルを少し変更しました。

個をないがしろにしない全体論は可能か——『全体論と一元論』というタイトルについて

私の単著『全体論と一元論——ヘーゲル哲学体系の核心』が、今月末に公刊されます。
全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

  • 作者:川瀬 和也
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
 

 「買ってください!あるいは買わなくてもいいけど図書館などで読んでください!あるいは読まなくてもいいけど積んでおいて機が熟すのを待ってください!」と言うだけでは芸がないので、ここでは『全体論と一元論』というタイトルについて少し述べてみたいと思います。

 
もともと本書は、「ヘーゲル『大論理学』「概念論」の研究」という博士論文に大幅な改稿を加えたものです。この悪く言えば無味乾燥なタイトルは、ある意味では博士論文としての堅実さを狙ったものでもありましたが、同時に、私自身が自分の研究を通じて伝えるべきメッセージを簡潔な形でまとめ損ねていたことを表してもいました。改稿にあたって、もちろん細かな論点について様々なコメントをいただき、大幅な修正を加えました。しかし同時に考えさせられたのは、本書全体を貫くメッセージは結局のところ何なのか、ということでした。
 
改稿を進める中で、改めてキーワードとして浮上してきたのが、「全体論」でした。ヘーゲルにおける「全体論」という主題は、アンビバレントな響きを持っています。いわゆるポスト・モダン思想においては、ヘーゲル全体論は目の敵にされたようなところもありました。様々なものの些細な、しかし大切な違いを無視して「全体」に取り込んでしまう、差異を無視して全てを同一性のもとに置こうとする、そんなイメージでヘーゲルが語られるのを聞いたことがある方もいるでしょう。ときには、「全体論」が「全体主義」と重ねられ、悲惨な戦争の記憶と結びつけられることすらあります。私には個々のヘーゲル論の妥当性を検討する力量はありませんが、しかし、大まかにこのようなイメージでヘーゲルが語られていたということを指摘するのは、少なくとも的外れではないでしょう。
 
他方で、英語圏の哲学においては、「全体論」が見直され、肯定的に語られることが増えてきました。戦後の分析哲学には、クワインの「経験主義の二つのドグマ」を記念碑とする、全体論という考え方を洗練させようとする流れが存在していました。英語圏におけるヘーゲル再評価の流れにおいても、マクダウェルやブランダムのヘーゲル論において、「全体論」は最も重要なキーワードの一つとなっています。フランスにおける全体論の不人気とは対照的と言っていいかもしれません。
 
このような議論状況の中でヘーゲルを、しかもヘーゲル論理学を論じるにあたって、「ヘーゲル全体論」とは一体何だったのか、という問題に取り組むことが、改めて課題として浮上してきました。私自身、ブランダムやマクダウェルにも影響を受けながらヘーゲルを読んできましたから、ヘーゲル全体論に哲学的な重要性が見いだせるはずだという確信を持っていました。そして、もしこの考え方に見るべきところがあるとするならば、それが単に個を無視し、差異を同一性に還元するだけの思想であるはずがない。むしろヘーゲルは、「個をないがしろにしない全体論」を打ち立てるという課題に取り組もうとしていたのではないか、と思われてきました。
 
したがって本書で私が挑戦したのは、ヘーゲル論理学を、「個をないがしろにしない全体論」を打ち立てようとするプロジェクトとして再構成することです。私の再構成が成功していないという評価はもちろんあるでしょう。また、私の再構成が成功していたとして、それを読んでもなお、「個をないがしろにしない全体論」というプロジェクトは破綻している、と診断する読者もいるかもしれません。それでも、ヘーゲルが初めから個をないがしろにするつまらない哲学体系を作ろうとしていたわけではない、ということについては、どうにか説得できるよう努力しました。
 
本書のタイトルのもう一つの構成要素である「一元論」についても、同様の状況を指摘できるでしょう。この考え方も、やはり一つの原理、同一性に全てを還元しようとする態度とも理解されかねないからです。しかし他方で、ここでもまた英語圏の哲学においては、「自然主義」と呼ばれる一元論的な態度が非常に有力なのものとなっています。自然主義には「自然」をどう理解するか、また、何に関して自然主義を採用するのかによって様々なバリエーションがありますが、共通するのは、「自然」なものによって全てを説明するのだ、という発想です。自然主義とは、何らかの意味での、自然一元論にほかなりません。
 
ヘーゲルは、二元論的な考え方を徹底的に避けようとしました。このヘーゲルの態度は「媒介」や「統一」の思想としてしばしば特徴付けられます。本書では、心身二元論に抗する、「生命」に着目した一元論の構想を、ヘーゲル論理学から取り出すことを試みました。この試みには様々に綻びもあると私は考えています。しかし、当時の未発達な生物学というリソースを最大限に活用して、一元論というプロジェクトを完遂しようとしたヘーゲルの姿から学べることは多いはずです。
 
魅力的な全体論と一元論を打ち立てることを目指した哲学として、いま、ヘーゲル哲学を再び正面から受け止めること。『全体論と一元論』というタイトルは、これが本書の課題であるということを示すためのものです。読者の皆さんには、私の、そしてヘーゲルのそのような挑戦を感じて頂けたらと思います。

フランクファートの根源的洞察

最近はフランクファートの自律論に集中的に取り組んでいるが、ここにはフィヒテ的な反省の問題との興味深い類似があるように思う。
 
フランクファートにとっての中心的な問題に、欲求のような心的態度が「私のものである」とはどういうことか、というものがある。われわれはときに、およそ自分のものとは思えない欲求を抱くことがある。フランクファートがよく使うのは依存症患者の例である。薬物に依存している患者がその薬物を欲するとき、この欲求は本当にその人自身のものだとは言えない場合がある、とフランクファートは言う。
 
フランクファートによれば、欲求が自分のものであるということは、その欲求そのものを欲する、二階の欲求があるということ(より厳密には、その欲求が因果的な効力を持つことを欲する二階の意欲があるということ)である。しかしここに問題が生じる。その二階の欲求が私のものであることは、いかにして保証されるのだろうか? 二階の欲求を欲する三階の欲求によってであるとすれば、私たちは直ちに無限後退に陥るだろう。ある欲求が「私のもの」だと言われるためには、すでに別の欲求が「私のもの」と呼ばれていなければならないのだ。それでは最初の「私の欲求」はいかにして生じるのか?
 
この問題は、「フィヒテの根源的洞察」とヘンリッヒが呼んだ、自我と反省に関する問題と同じ形をしている。自我が存在するためには、自我がそれを自我として定立したのでなければならない。しかし、自我が存在する前に、自我を自我として定立する自我は一体いかにして存在するのだろうか? このいかにもドイツ古典哲学然とした問題が、フランクファートの中に見出されるのは意外かもしれない。しかし、考えてみれば、フランクファートにおいて問題になっているのはまさに行為者の反省性なのである。
 
コースガードのアイデンティティ論において、この問題はさらに鮮明になる。コースガードは、フランクファート的な階層理論による自由やアイデンティティの説明を、カントの自己立法の問題と関連付けるからである。カントにおいて、理性が自らに課す法が権威を得るのはなぜなのか。自らが自らにとっての権威となるためには、すでに自らが自らによって権威を与えられていなければならないのではないか。頭の中に渦巻きが出てくるような循環構造を持ったこの問いが、ここにも再び現れる。行為者性をめぐる現代の問題は、フィヒテ的な反省の問題の親戚だと言えるだろう。
 

急がば回れ。遠隔授業のために授業設計の基本を学び直そう

2020年5月現在、最も多くの大学教員を最も悩ませているのは、遠隔授業への対応でしょう。Zoomの使い方、LSMの使い方、映像編集の仕方など、ICTの活用法にも注目が集まっています。

しかし、これらを使いこなすために最も重要なのは、授業デザインの基本に立ち返ることだと私は思います。特に大学教育の大部分を占める知識伝達型の授業についてはそうです。(知識伝達型でない授業こそ大学教育の核心であるという考え方もあるとは思いますが、そうは言っても微分方程式を知らずに物理学をやることも、セントラル・ドグマを知らずに生物学をやることも、正規分布を知らずに社会科学をやることも、哲学史も論理学も知らずに哲学をやることもできないでしょう。)

この記事では、遠隔授業対応において最も重要だと私が考える三点に絞って、授業デザインの基本を紹介したいと思います。目次は以下の通りです。

1.目的・目標を明確にした授業デザイン
2.学生の状況を把握し、学習効果を高める評価
3.教材開発という視点をもった資料作成

 

1.目的・目標を明確にした授業デザイン

知識伝達型の授業設計において最も重要なのは、目的・目標を明確にし、その達成をサポートするように授業全体を構造化することです。「目的・目標」という言葉に抵抗があるようなら、「あなたがその授業で学生に最も伝えたいことは何か?」と言い換えていただいても構いません。教員の皆さんは、学生に何かを伝えたくて授業しているはずです。その「何か」を明確にすれば、それが目的・目標になります。目的・目標が明確でない授業は、主張が明確でない論文と同じです。論文全体が主張をサポートするように構造化されていなければならないのと同様に、知識伝達型の授業は、その全てが、目的・目標の達成をサポートするように構造化されていなければなりません。

これをはっきりさせることができれば、授業を細かい部分に分けていくことが容易にできるようになります。これも論文や本を書くときと同じだと考えていただくのがよいでしょう。一冊の本や博士論文のような長い論文は、章から構成されます。そして章はさらに節に、節は段落に分かれます。大学教員なら誰でも知っていることでしょう。これと同様に、15回の授業は、数回ごとのユニット(単元)や1コマごとの授業から構成され、さらに1コマの授業だいたい10分前後のまとまりから構成されるべきです。こうして目標をブレイクダウンしていく作業は、論文のアウトラインを作る作業と全く同じです。

この作業は通常の授業でも重要なのですが、遠隔授業においてはより重要になります。とりわけ90分の1コマをさらに細かくブレイクダウンしてく作業が重要です。90分間、集中力を切らさずに映像を見続けることは、ほとんどの学生にとって不可能だからです。映像コンテンツを作成する場合、一つの映像を10分以下にすることが有効だと言われています。ということは、90分の授業なら、九つのパートに分解しなければなりません。もちろん通常の授業にある雑談や演習などは省略されるでしょうから、実際には映像の場合10分×5つから7つほどのコンテンツに分かれることになるでしょう。

目的・目標をサポートするべく授業全体が構造化されていれば、この作業を難なくこなすことができます。構造化されたユニットごとに映像を区切っていけばよいからです。大学の先生方には、これを成し遂げる能力が十分備わっているはずです。なぜなら普段から論文を書いているはずだからです。その知見を応用するだけです。

これまでの2段落は映像コンテンツを前提に書いてきましたが、同じことはワープロソフトで資料を作成する場合にも言えます。むしろそちらのほうが想像しやすいかもしれません。ワープロソフトでの資料作成は、映像コンテンツ以上に、本や論文の執筆に似ているからです。入門書を書くような気持ちで、アウトラインが明確なレジュメを作るようにしましょう。その際に、その授業の目標(=学生にもっとも伝えたいこと)をサポートするように全体を構成しましょう。このときには、主張をサポートするように論文を構成するという、研究者なら誰もが身につけているはずの能力がそのまま活用できます。もちろん文章で書くと負担が大きすぎるでしょうから、箇条書きにしたり、適宜教科書を参照させたりしても良いと思います。その際にも、あなたが伝えたいことをサポートするように全体を構造化することが重要です。

目的・目標を明確化することは、教育の質保証の観点からも重要です。本来対面で行うべき授業を遠隔で行うわけですから、教育の質は一定程度下がってしまうかもしれません。少なくとも学生に全く同じ体験をさせることはできません。それでも大学は同じ授業料を徴収し、同じ学位を与えることになるはずです。(学生の人生を考えれば全員を留年させるようなことはできませんし、大学として払うコストは減らないわけですから、経営の観点からしても授業料を減額することは難しいでしょう。)このことを正当化するためには、教育の質保証、つまり、同じ知識や技能を習得できるということの保証が必要です。対面授業と同じ目的・目標のために授業全体を構造化させることによって、教育の質は保証されるはずです。

もう一つ、目的・目標に基づく授業デザインの重要性を私がここで強調したい理由は、そのための努力が、再び対面授業に戻ったときにも活用できる遺産になるということです。何を伝えたいかが明確になり、そのために構造化された授業の作り方を身につければ、これは対面授業においてさらに大きな効果を発揮するはずです。

目的・目標を明確にした授業デザインをするということは、「学生に伝えたいことの棚卸し」をするということでもあります。自分の授業が学生に何を伝えるものになっているか、この機会にはっきりさせておくことで、学生にとってもわかりやすく、教員にとっても効率的な授業作りが可能になります。

 

2.学生の状況を把握し、学習効果を高める評価

遠隔授業では、成績評価とは別に、小テストや小レポートなどを通じて、学生の理解度を把握するための評価をこまめに行うことが対面授業のとき以上に重要になります。対面授業であれば、学生の顔や教室全体の雰囲気を察知して、理解度が低いと感じられた場合にはとっさに説明を増やすなど、臨機応変な対応が可能です。しかし、遠隔授業ではこれは難しいでしょう。これを補うためにも、小テストや小レポートを取り入れることが重要になります。(なお、このような目的で行う評価を教育学では「形成的評価」と言います。)もちろん、実務的にも出席を取ることができませんから、その代替という意味合いもあります。

1で目的・目標の明確化とブレイクダウンができていれば、小テストの作成はそれほど難しいことではありません。目的・目標とは「あなたが最も伝えたいこと」なのですから、小テスト・賞レポートでは、それが本当に伝わったかどうかを確かめればよいのです。1コマをさらにいくつかの部分に細分化し、その細分化した箇所ごとに数問の小テストを作成することが理想的です。これにより、どの部分が伝わっており、どの部分が伝わっていないかを、教員も、また学生自身も、把握することができます。

学生の集中力を切らさず、モチベーションを高めるためにも、こまめに小テストに取り組ませることが重要です。教員の我々にとってすら、90分の講演などの映像を、集中力を切らさずに見続けることはかなり難しいことです。学生にとってはなおさらでしょう。文章だけで独学する場合も同様です。小テストや小レポートが課され、それに対するフィードバックがあれば、学生のモチベーションは大きく高まるはずです。

 

3.教材開発という視点をもった資料作成

授業デザインのプロセスをモデル化したものに、「ADDIEモデル」というものがあります。これによれば、授業を行う際の教員の仕事は、Analysis(伝えたいことや学生の状況・能力の分析)、Design(伝えたいことを伝えるための授業設計)、Development(スライドやレジュメなどの教材開発)、Implementation(授業の実施)、Evaluation(評価)の五つのステップから成るとされます。

普段あまり意識しないことかもしれませんが、対面授業におけるスライドや板書、レジュメは、あなたの授業の「教材」です。遠隔授業では、この教材の重要度がより大きくなります。対面授業のように口頭で補足することができなくなり、学生は教材だけをつかって学習することになるからです。スライドやレジュメは、単にあなたの考えや重要事項をまとめたものではなく、学生の独習をサポートするものでなければなりません。このことを意識すると、どのようなものを作れば良いか、イメージが少しわいてくるはずです。

もちろんすべてをゼロから自作する必要はありません。過去に使っていたレジュメを少し手直しして、2で触れたような、理解度を確認する小テストを付け加えるだけでも、学習効果は飛躍的に高まるはずです。市販の教科書や書籍を教材として活用することももちろんOKです。その場合にも、その資料を読ませることを通じて学生に何を伝えたいのかを意識して、授業全体の構造の中に位置づけることが重要です。

以上、目的・目標の明確化、こまめな小テストによる形成的評価、教材という視点をもった資料作成の三点を意識することで、授業を遠隔対応のものに改造するための指針が得られるのではないかと思います。

 

最後に関連書籍を紹介して終わりにします。

 

 

授業設計 (シリーズ 大学の教授法)

授業設計 (シリーズ 大学の教授法)

  • 作者:中島 英博
  • 発売日: 2016/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

『授業設計』では、その名の通り、授業を設計するための考え方がわかる本です。最新の研究成果を実際の授業で使いやすい実践的なアイディアに落とし込んで伝えてくれるところに特長があります。

 

教材設計マニュアル: 独学を支援するために

教材設計マニュアル: 独学を支援するために

  • 作者:鈴木 克明
  • 発売日: 2002/04/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

『教材設計マニュアル』は、インストラクショナル・デザインの観点から独学用の教材を作るための考え方を整理した本です。まさにいま求められる本だと思います。

 

 『遠隔教育とeラーニング』は、少し専門的ですが、遠隔授業をよりよいものにしたい、意欲のある先生におすすめです。 

 

 

『精神現象学』、どこから読むか?(ヘーゲル(再)入門ツアー2019-2020 予稿)

ヘーゲル(再)入門ツアー『精神現象学』編の開催まであと1週間。この記事では、なかなかとっつきにくい『精神現象学』をどこから読み始めるのがよいかについて書いてみたいと思います。

①「序論(Vorrede)」から読む

本の最初から素直に読み始めるのがこのパターン。いちおうヘーゲルはこの順番で読むことを意図しているはずなので、それに従って読んでみるのは悪くない選択肢でしょう。しかしこの序論、かなり長く、また、普通の序論と違って、全体を予告したり、使われる概念を整理してくれたりするような性質のものではありません。むしろ最初から実質ある哲学的な議論が展開されます。根気よくモチベーションを保って読んでいくのは難しいかもしれません。もし心が折れたら、②以下の入り口も試してみましょう。

②「緒論(Einleigung)」から読む

精神現象学』には「序論」のようなものが二つあります。その二つ目がこの「緒論」。実はヘーゲルはこの「緒論」を最初に書いて、本文を書き、最後に「序論」を書いたと言われています。そのため、ここから読み始めることでヘーゲルの思考がたどれるとして、ここから読み始めることを推奨している入門書も少なくありません。内容的にもヘーゲルにしては読みやすく(「ヘーゲルにしては」を外して読みやすいとは言えませんが)、分量も「序論」より短めなので、なんとか読み切ることも出来るのではないかと思います。

③「感覚的確信」から読む

長い長い二つの序論がおわって、いよいよ「意識」を主人公とした『精神現象学』の道のりがスタートするのがこの箇所。この箇所から、かなり叙述の雰囲気が変わります。「序論」や「緒論」は難解ながらも普通の哲学書のような論じ方だったのが、ここからは”主人公”視点(「意識」の視点)と”神様”視点(「われわれ」=哲学者の視点)が交錯する物語のような独特の語り方に変わります。「序論」や「緒論」の途中で挫折した方も、せっかく『精神現象学』を手に取ったからには、一度はここでのヘーゲル独特の語り方に触れてほしいところ。決して読みやすくはないので、結局は途中で読むのをやめることになってしまうかもしれませんが、それでもヘーゲル独特のひと味違う難解さに触れることができるでしょう。

④「知覚」から読む

ここから二つは私のおすすめ。哲学の心得のある方におすすめしたい一つの入り口がこの箇所です。「感覚的確信」の箇所は、哲学的には実は少し退屈な箇所で、重要性がなかなかわかりづらい。これに対して、この「知覚」の箇所では、性質と基体の関係のような話が出てきたりして、ヘーゲル独特の語り口ながら、哲学的にどんな話がされているのか、ヘーゲルがどんな話をする人なのか、比較的わかりやすいのです。とはいえもちろんこれは「性質と基体」ときいてピンとくるような、哲学には心得があってもヘーゲルは未読、という方のためのコース。それ以外の方や普通の学部生などにはちょっと厳しめのルートです。

⑤「理性」のBから読む

哲学の心得がそれほどない方にも一度読んでみてほしいのがこの箇所。ここでは、やろうとしたことがうまくいかなかったり、意にそぐわぬ結果になってしまったりする小説のような叙述が3パターン繰り返されます。(それぞれ、ゲーテの『ファウスト』、シラーの『群盗』、セルバンテスの『ドン・キホーテ』がモチーフになっているとされます。)このため、テーマ的にかなりとっつきやすくなっています。私自身、大学3年生のとき、この箇所を読んで初めて少しヘーゲルの文章を理解できた気がした思い出の箇所でもあります。本棚に戻してしまう前に、一度この箇所だけでも開いてみてほしいと思います。

精神現象学』という本は、次々と新しいトピックが登場し、めまぐるしく表情を変えていく不思議な本です。上に挙げたもの以外にも、あなたにぴったりの入り口があるかもしれません。例えばいわゆる「主人と奴隷の弁証法」について知りたいといった明確なモチベーションがあるなら、その箇所だけ読んでみるのも悪くないでしょう。難解な本ではありますが、あなたなりの入り口を見つけてほしいと思います。

ちなみに、再来週の12月22日(日)、東京・池袋の東京セミナー学院にて、ヘーゲル(再)入門ツアーには、上でおすすめした④の知覚の箇所と、⑤の「理性」Bの箇所から、短めのテクストを選んで読んでみるワークを組み込んでいます。春に実施した際には、難解な文章を皆で一緒に読み、さらにその場で専門家の解説を聴くという体験が新鮮なものだったと非常にご好評を頂いたパートでもあります。ご興味を持たれた方は、ぜひご参加をご検討ください。

 

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