哲学を学ぶ最も効果的で楽しい方法に、読書会を開催することがある。私も多くのことを読書会から学んだ。しかし、読書会はときには失敗してしまうこともある。だんだんと参加者のモチベーションが下がるのがわかるようになり、一人、また一人と集まらなくなる。スケジュールが合わない日が増え、最後にはなんとなく立ち消えになる。
こういった事態をなるべく防ぐためには、参加者の間でビジョンを共有しておくことが重要だ。そもそもどんな目的でその文献を読むのか。必要があって最後まで読み切りたいのか、それとも、読み切れなくてもよいから、滋味が出るまで噛みしめるような精読がやりたいのか。外国語文献であれば、語学の学習にどの程度重きを置くのか。もっと言うと、語学の能力が劣る参加者にどの程度合わせる用意があるのか。(このようにいったからと言って、語学が苦手な方にも恐れをなさないでほしい。読書会はそもそも、その言語の初学者の語学学習支援を兼ねている場合もある。そのような会では、初心者はもちろん歓迎される。)
会議のファシリテーションのための「グラウンド・ルール」という考え方も、読書会でも応用が利くだろう。どのような発言が推奨されるのか。何でも述べて良いのか。大演説をぶつことは許容されるのか。沈黙はどれくらいの時間続いても良いのか(10分以上沈黙が続く読書会もある)。一回にどのくらい進みたいのか。大学院のゼミなどと違って、参加者の属性がバラバラの読書会では、これらを名文化しておくことは有効だろう。
読書会におけるグラウンドルールとして私がおすすめしたいのは、「必要不可欠な場合を除いては空中戦を控えて、本文に書かれていることをもとに議論しよう」というものだ。「空中戦」とは、読んでいるいる本文の中で直接言及されない事項について、読書会中に議論することを言う(たしか、数回だけ出席した熊野純彦先生のゼミで使われていた言い回しだ)。これがあまりにも多いと、ほとんどの参加者は議論についていけなくなり、モチベーションが大幅に低下してしまう。とはいえ、これを一律に禁止するのもよくない。専門的な文献や古い文献になればなるほど、暗黙に前提されている知識があり、それを補いながら読まなければ正確に理解できないということが起こるからだ。
経験的には、自分がその分野に十分詳しく、かつ本文の理解に決定的に資するという確信がある場合にのみ、「空中戦」を許容するのがいいように思われる。言い換えると、「初心者にはおすすめできない」ということだ。「もしかすると関係あるかもしれない」くらいで話し始めると、実は全く関係がなかったということがしばしば起こる。異なる文献と関連付けるためには、知識やスキルが必要なのだ。(もちろんたまにはチャレンジして失敗することもあってよい。話してはみたがあまり関係がなくなってしまった、という失敗は私にもある。なるべくそのような失敗をしないようにしよう、と意識するだけでも、読書会の雰囲気が大きく違ってくる。)
では、初心者はあまり発言すべきではないのかというと、そんなことは決してない。自分が不案内な分野の読書会では、なるべく本文に即した疑問を提示するように心がけよう。「この言葉の意味がわからない」のような初歩的な疑問が、全員にとって本文の理解を促進するようなよい質問になることもある。そうでなくても、本文に即している限りで、その疑問にはほとんど全員が必ず興味を持つはずだ。参加者はその本を理解するためにわざわざ集まっているのだから。
なお、読書会については次の二つの記事も合わせて読むことをすすめたい。
※関係ありませんが、先月出た著書の宣伝です。この本の読書会をしていただいているようで、とてもありがたいです。