哲学書はなぜ間違いだらけでなければならないのか
図書館や書店で哲学書の棚の前に立つと、不思議な気持ちになることがある。ここにこれだけたくさんの本があるけれど、ここに書かれていることはほとんどが間違っている。同じテーマについて書かれた、何千円もする重厚な専門書を2冊選んで手に取ってみる。すると、全く逆のことが書かれていたりする。哲学という分野に特有とまでは言わないが、しかし哲学書に特にこの傾向が強いとは言えるだろう。
繰り返すが、哲学書に書かれていることは、ほとんどが間違っている。しかも、専門書になればなるほど、多くの間違いが含まれている。これは、私の本や、私以外の著者によって書かれた哲学書を読む方に、どうしても知っておいてほしいことである。
なぜそんなことが起こるのか。それは、間違うリスクをとることなしには、哲学的に意味のあることを言うことはできないからである。もちろんわざと間違いを言うわけではない。哲学者たちは皆、誠実に、自分が正しいと信じていることを書いている。しかし、それが十中八九間違っているということも、同時に確信している。学術書を公刊することを「世に問う」とは言うのもこのためだ。学術書を出版するということは、意欲的な読者に間違いを見つけてもらい、それを通じて学問そのものを発展させようとすることなのである。
したがって、哲学を学ぶということは、膨大な間違いのサンプルを学ぶということである。苦労して学び覚えたことのほとんどが間違っていたら、普通は嫌だろう。しかし、哲学においてはそれは普通のことだ。哲学を学ぶ際に、真理を直接に知ることはできない。これまでどのようなことが真理だと主張されてきたか、現在はどのような議論があるのか、ということを知ることができるだけである。
ただし、「哲学には答えがない」というのも間違っている。答えにたどり着くことは難しく、ほとんどの論者が失敗しているが、それでも哲学者たちは大真面目に答えを目指している。そうでなければ、哲学者たちは全員茶番か八百長をやっているということになってしまうだろう。もちろん細かいことを言えば、問題設定がうまくいっていないために実際に答えが存在しない場合もある(このような場合に問いは解決されず解消されるというような言い回しがなされたりする)。あるいは、実際に答えが出たり、哲学以外の分野で扱われるようになった問いもある(例えば、この世界は何からできているか?という古代ギリシャの哲学者たちの問いを現代において引き受けているのは、化学者や物理学者たちであろう)。しかし、現在哲学で問われている多くの問いは、答えがあるはずなのにまだ見つかっていないと信じられている問いである。
したがって私の本にも、多くの間違いが含まれているだろう。そのようなものを世に出すことは非常に恐ろしいことだ。それでもなお、少しでも人類の知識を増やすことに貢献できればと思うがゆえに私たちは本を書く。このようなことは大前提であるから、わざわざ本に書かれてはいない。しかし、自分が本を出すにあたって、改めて明示的に述べておきたかった。
なお、もし私の本や他の誰かの本に間違いを見つけたら、できれば優しく指摘してほしい(学術論文の形をとる場合にはその限りではないが)。自分が書いていることのほとんどが間違っている可能性を受け入れていたとしても、やはり自分の間違いを認めるのは楽しいことばかりはない。それでも哲学者が批判を歓迎するのは、批判者も自分と同じ、真理の探究という目的を共有していると信じるからこそである。議論の目的は相手を論破することではなく、協力して真理に近づくことである。