川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

ツイートになり損ねたメモたち

ここ数ヶ月、メディアとしてのTwitterの使い方を模索してみたが、やはりどうしてもコスパが悪いというか、気が散ったり気を遣ったりするマイナスの方が大きくなってしまう。まあ私の意志が弱いだけではあるが。自分がやりたいことがSNSに合わなくなってきたということかもしれない。(余談だが私はコスパは大事だと思う。コスパを無視してやっていけるほど人生は長くない。)
少し寝かせてからツイートしようかと思っていたメモがあるのだが、代わりにブログの形で放出しておくことにする。たくさん並べると、Twitterというか文章によるSNS、しかも双方向的でないものというのは、要はアマチュアによるアフォリズムなのだと気づかされる。
 
 
(1)もう昨年のことになるが、ポピュラーすぎるのでなんとなく読まず嫌いしていた齋藤孝『読書力』(岩波新書)をオーディブルで聴いた。読書力を身につけるための本ではなくて、読書力の大切さと授業づくりの提案を説く本だった。高校生や大学生にモチベーションを高めてもらうにはよいかも。ことしの初年次ゼミで扱ってみることにする。
 
 
(2)宮崎に就職して7年。徳島から数えれば、2023年度で地方大学に勤めて10年目。なぜ地方に(とりわけ文系の)大学が必要か、ということを折に触れて考えざるをえない人生となったが、これはなかなかに難しい問いである。可能な答えとしては例えば次のようなものがある。
 
1.卓越主義。つまり、地方で生きる人々ひとりひとりがその知的能力を開花させることが無条件に望ましい、ないしは良き結果を必ずやもたらす、という主張。(だが、これは道徳的に問題含みの帰結を含みうるかなり論争的な主張である。)
2.ラディカルな地方自治、ないし文化的自治の必要性。地域から大学が失われれば、本当の意味での自治の能力を失われるがゆえに問題がある。(だが、これは中世的な大学の理念をかなり引きずった立場であり、現代日本地方自治はそもそもそんなにラディカルなものにはなっていない。)
3.大都市の大学院への進学ルートの確保。アメリカのリベラルアーツカレッジに近い位置づけ。(だが、日本では大学院進学率自体が低く、このルートを選ぶ学生はあまり多くない。)
4.ソーシャル・モビリティの確保。3に少し似ているが、日本ではこの言い方がより妥当だろうし、学生やその保護者から見ればこれが大きいだろう。ようは就業機会が広がるということ。(これはおそらく最も現実に則しているが、大学全入時代、18歳人口が先細る社会で、この観点から見た大学の求心力は縮小せざるを得ないだろう。)
5.学問研究を地域のレベルで支えていくという志。学問への投資は未来への投資である。全国津々浦々、他地域の投資にフリーライドせず、自らの手で学問を支えていくべきである。(だが、これはほとんど大学側の(というか私の)願望に近い。少なくともこれを掲げて選挙で勝つのは難しいだろう。)
6.人の流動性、および若者人口の確保。(これは実際に無視できない大学の役割だと思うが、そもそも大学に若者を呼び込むだけの魅力があることが前提となる。)
7.その地域で働く人たちにとっての、リカレント教育の拠点として。(だが、そのためには地域の企業が、人材に投資するというマインドを持ち、かつその際にリベラルアーツの学びを重視するのでなければならない。)
どれも問題含みであり、決定的とは言えないのだが、しかし合わせ技で、かつ現状維持バイアスと相まって、どうにか大学が維持されている、というのが実情であろう。
ということをつらつら考えたりしているのだが、しかしよく考えると地域にどんなニーズがあるのか、私には実はよくわかっていないのである(宮崎出身であるにもかかわらず。とはいえ高校生までの子どもと、アウトサイダー的な大学教員としてしか宮崎に住んでいないのだから当然である)。少なくとも普通に哲学を研究していて、地域のニーズを知れることはほぼない。そこをしっかり掴むためには、学際研究ないし本気の副業をやるつもりで地域に関わっていく必要がある。
ということは、「本業」と位置づける哲学研究のエフォートを削るしかないということである。とはいえ地方に大学がある状況を維持することは、日本における哲学研究のレベルを維持するためにも必要なことであり、それはひいては自分の哲学研究の将来にわたる読者を確保することでもある。(これも他の研究者にあてはまるかはわからないが、私は読者のいないものを書こうとは思わない。)言い換えれば、地方大学と地域の共栄を探ることは、読者を作り出すという仕事の一部でもある。ここまでくると研究を続けていく(そしてそれが自分の死後にまで続いていく状況を作り出す)ことの根幹に関わるとも言える。
 
 
(3)AIが書いた65点ぐらいの文章が蔓延するようになったら、これまで65点だった文章は一律で50点不合格にするという方向もありうるかもしれない。これはつまり、「AIでも書けるような文章なら評価に値しない」と宣言することである。そうすると「AIが書いた65点の文章を100点に校訂するスキル」が必要ということになる。しかし、「AIに頼らずに65点の文章を書くスキル」がない人間には、AIが書いた文章を100点に校訂することは難しいように思う。(手動で車を運転できない人が、自動運転車の判断ミスを手動で補えるだろうか?)
 
 
(4)授業と研究への時間配分は、「目の前の学生への奉仕」と「全人類のための知識創造+将来の学生への奉仕」へのリソース配分だということがやっとわかってきた。どちらを削るのも苦しいが時間は有限。FDでは「四つの学識」論が有名だが、答えをくれる理論というよりは考えるための取っかかりくらいに思った方がいいだろう。
 
 
(5)学問は社会と緊張感のある対話関係を築いていかなければならない。社会に迎合するのではなく、しかし背を向けるのでもなく。そのためには学問の世界にもしっかり身を置きながら、その外にいる方々に向けての発信もやるべきだということになる。社会と学問の緊張ある対話を作る仕事は伝統的には「知識人」としての仕事ということになるのかもしれないが、アマチュア性を押し出したサイード的な知識人像は、時代に合わなくなって来ているようにも思う。(真面目に細々とやってきた学術会議があれほどバッシングされる時代である。)
科学コミュニケーションは、この時代の新しい知識人像を模索する試みの一つとみることもできるかもしれない。しかし、アマチュアとしての知識人の時代は終わり、プロ知識人と研究者がはっきり分かれていく、というのも違うだろう。全ての学者が最低限の科学コミュニケーションを履修しなければならない、とすれば、科学コミュニケーション教育はFDの一部、ということになるかもしれない。
 
 
(6)この春には2冊目の入門書をやっと書き始めることができた。一般読者に向けた文章を書くのはとても楽しい。がんばります。
 
 
(7)ダメット『FPL』は今年で50周年になるのだろうか。実は私のブランダムは半分はヘーゲルではなくダメットから。在籍していた当時の東大哲学研究室でダメットが大流行していなかったら、当時邦訳のなかったArticulating Reasons(『推論主義序説』)の語用論的意味論や主張可能性主義がどんな問いに答えようとしているのか、理解することはできなかったと思う。(ただし、あの分厚いFPLを不真面目な学生だったわたしはほとんど読んでおらず耳学問でしかない、ということは告白しなければならない。自力で学んだのではなく、尋ねれば(場合によっては尋ねなくとも)教えてもらえるありがたい環境にあったということである。)
 
 
(8)哲学書では思考のプロセスを明示的に書き、それを読者に追体験してもらうことがよくある。しかしこれをやると、パラグラフ・ライティングの原則から大きく外れてしまう。なぜなら、思考のプロセスをたどれば当然、結論が最後に来てしまうからだ。
ところでこの書き方はしばしば入門書で用いられる。これは初年次教育においては結構悩ましい問題である。読みやすい入門書であればあるほど、基本のパラグラフライティングを学んでもらうには向かない、ということになるからだ。(念のために言えば、それは書き手の技術不足を意味しない。初学者向けであればあるほど、論証にとっては「枝葉」であるような部分、読者の日常生活から専門的な議論へと入っていく道しるべとなるような、「マクラ」的な記述が必要になるということである。)