川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

大学での対面授業を再開すべきでない7つの理由

昨年度、多くの大学で対面授業が禁止され、オンラインでの授業が実施された。感染対策には一定の効果があったのではないかと思うが、キャンパスライフが送れないという学生からの不満もあった。ニュースやインターネット上でも議論が起こっていたため、ご存じの方も多いことと思う。
 
そして本年度。文部科学省は、大学に対面授業を実施するよう強く求めている。「安易にオンラインに流れることがあってはならない」という、文部科学大臣の高圧的な発言まであり、ますます態度を硬化させている。(この発言は現場の苦悩をあまりにも無視した発言であり、大いに士気を下げるものであったと思う。)ともあれ、こうした一連の求めに応じて、多くの大学が「原則対面授業」の方針を打ち出し、実際に対面授業が実施されている。緊急事態宣言の発出と延長もあり、大学現場では大きな混乱が生じている。
 
一方で、周知のとおり、第4波と言われる感染拡大は現在も続いている。多くの地域で過去最高の感染者数が報告され、全国的に爆発的な感染が生じつつある。以前よりも感染しやすい、若者も重症化しやすいといった、連日マスコミをにぎわせている変異株絡みの不穏な情報も多い。(ただし、十分なデータ解析はなされていないのが現状だろう。)
 
私自身は、現状で対面授業を実施することには強く反対の立場である。もちろん組織の一員として雇用され生活の糧を得ている以上、大学全体の方針には従わざるを得ない面もある。しかし、これほどの感染拡大の中で対面授業を強行することは不合理であり、人道的にも問題があるとも考えている。以下、その理由を詳しく記す。
 
理由1 学生の健康と命を守る
大前提として確認しておくが、対面授業には感染の危険があり、遠隔授業にはない。そして、感染の危険があるということは、健康が脅かされる危険があるということである。重い後遺症が残るという情報もある。また、重症化して最悪の場合命を落とすリスクがある。
 
キャンパスライフが送れない学生が気の毒だとは私も当然思う。なるべく学生が孤立しない支援をすべきだとも思う。しかし、命を守ることはキャンパスライフを守ることに優先されるべきだ。まずはこの点を確認すべきであろう。学生たちが社会全体のために、あるいは高齢者の命を守るためにとばっちりを受けているという論調もある。確かに昨年度のうちはそれに近い側面もあっただろう。しかし現在ではそれ以上に、学生自身の命と健康を守ることが喫緊の課題である。変異株の拡大で、なおさら学生たち自身の命に危険が迫っている。
 
理由2  「攪拌」効果
大学での対面授業は、大学生の他の活動や、あるいは小中学校・高校、職場と比べても、感染リスクが格段に高いように思える。なぜなら、対面授業は、学生たちを「攪拌」してしまうからである。
 
小学校や中学校、高校には学級がある。そして、基本的には学級を単位として授業が実施される。一部移動教室や行事などはあれど、多くの授業で席は固定されている。また、多くの職場でも席は固定されている。席を固定しない「フリーアドレス」が増える兆しがあったにせよ、主流とはいいがたく、また感染防止の観点から見直しの動きもある。昼食時などに、他の部署との接触をなるべく減らすような動きもある。
 
これに対して、大学には学級という単位がない。また、多くの大学では、選択授業の割合が非常に多い。(資格取得のために大量の必修科目がある医歯薬系などはその限りではないが。)選択科目が非常に多いということは、1コマごとに授業に集まる顔ぶれが変わるということだ。
 
これは、感染防止と非常に相性が悪い。キャンパスに通う学生のうち一人が感染していたとする。この学生は毎時間別の学生と接触する。また、この学生と接触した学生も、毎時間別の学生と接触する。したがって、一人感染していれば、その日登校している1000人という規模のすべての学生に感染のリスクが広がりかねない。
 
さらには、昼食をはさんで授業がある場合には、多くの学生が学食や近所の食堂に集まって食事をする。全員が同じ場所に集まって食事をせざるを得ない状況が生じるのである。これもまた、感染防止の観点からは最悪であろう。
 
首都圏や関西の大学では、県境をまたいで通学する学生も珍しくない。しかもその数は、高校までとは比較にならないほど多い。こうした点に関して、文部科学省や各大学はどのように考えているのだろうか。
 
平時であれば、授業を選択できる仕組みや、学食に多くの学生が集まる仕組みは、キャンパスライフの大きな魅力である。これにより偶然の出会いも生まれて、交友関係が拡大するということもあるだろう。しかし、現状においては、このシステムにより、小中学校や高校、また多くの職場と比べても、大学での対面授業は、感染リスクが非常に高い。
 
理由3  学習の質
対面授業の方が、学習の質は高まるのだろうか。最終的にはデータを基にした研究が進められるべきであるが、少なくとも現時点で、対面授業の方がオンライン授業より効果的であると結論づけることはできないだろう。しかも、そのメリットが感染リスクを考慮してもなお覆らないほど大きいと言えるかというと、なお心許ない。
 
注意してほしいのは、ここで問題になるのが、オンライン授業と、2019年度までに行われていた通常授業の比較ではないということだ。実際に行われるのは、通常授業ではなく、「感染対策をした対面授業」である。オンライン授業にはもちろんさまざまな制約があるが、「感染対策をした対面授業」にはそれに劣らず様々な制約がある。
 
最も大きな問題は、感染対策をしながらの対面授業では、ペアワークやグループワークのような学生同士の相互作用をなるべく減らさざるを得ないということである。これを減らすということはすなわち、家で動画を見たり本を読んだりするのに限りなく近い授業しかできないということだ。危険を冒して対面授業を実施する意味は半減してしまう。逆に、対面ならではの良さを出そうとすると、それは大きな感染リスクを伴う。100人の学生に、2メートルの距離を開けて、ペアで話してもらうことを想像してほしい。声が聞こえないから、大声を出さざるを得ないだろう。ほかのペアも大声を出すから、余計に声が大きくなる。これを避けるなら、やはりペアワークそのものを中止するしかない。
 
また、オンライン授業にはオンライン授業ならではの良さもある。実施形態によっては動画を何度も見直すこともできる。個人差があるが、チャットの方が質問しやすい学生もいるだろう。グーグルスライドなどを活用したグループワークも、オンラインならではの効果的な方法である。これに対して、「感染対策をした対面授業」には、「ならではの良さ」はない。どうあがいても、通常の対面授業の劣化版にしかならないのは明らかである。この点でも、オンライン授業よりも感染対策をした対面授業の方が学習効果が高い、という判断には、首をかしげざるをえない。
 
理由4 キャンパスライフ
対面授業が叫ばれる最大の理由は、「キャンパスライフ」であろう。しかしこれにも疑問がある。なぜなら、「感染対策をした対面授業」は、これまでのキャンパスライフとは似ても似つかないものになると思われるからだ。この点に関しては、文科省の主張は混乱している。
 
感染対策を徹底するなら、ただ授業が対面になるだけで、それ以外のコミュニケーションはすべて禁止すべきだろう。すると、キャンパスライフはこうなる。授業中は、ただ座って黙って聞いてもらう。ペアワークやグループワークは行わない。休み時間には友達と会話をしてはならない。空きコマも同様である。空き教室での談笑などもってのほか。じっと黙って指定の場所で待機してもらう。食事も友達とは取れない。一人で、誰ともひとことも会話せず食事を済ませ、しかも学食の席数が足りないから大急ぎで食べて移動してもらう。サークル活動ももちろん不可能である。これが求められていたキャンパスライフだろうか? 
 
そうではないのだとすると、感染対策を「徹底しない」ことが求められていることになる。休み時間や空きコマには友達と少しくらい喋っても構わない。昼食くらいは一緒に食べてもよい。このように軽く考えられているのだろうか。対面授業を実施することは実質的にこれらのコミュニケーションを推奨していることになるのではないか。ちなみに実際の学生の様子を見ていても、当然のように休み時間には喋っている。これを禁止するなどできない。
 
つまり、「感染対策を徹底したキャンパスライフ」などありえないのである。学生を大学に来させる以上、「徹底した感染対策」などできない。もしできたとすれば、そこには「キャンパスライフ」はない。オンラインで映像を見るのとあまり変わらない授業があるだけである。
 
理由5 アクティブ・ラーニング
政府関係者や医療関係者の発言を聞いていると、「授業は黙って聞くだけだから感染リスクが低い」と言われることがある。しかしこれは現在の大学教育を全く知らない人の発言に思える。昨今の大学は、学生が黙って聞くだけの授業を減らすべく努力してきた。
 
文部科学省はずっと「アクティブ・ラーニング」を推奨してきた。アクティブ・ラーニングとは、簡単に言えば、ペアワークやグループワークを取り入れて「学生が喋る」タイプの授業のことだ。
 
つまり、最近の大学では、授業中に学生は大いに喋るのである。演習系の科目では、教員が喋る時間より学生が喋る時間の方が長い。例えばライブやコンサートの客よりも、授業を受けている学生の方がよくしゃべる。
 
講義系の科目であれば、例年と内容を変えてペアワークを減らすことも可能である。しかし、演習系の科目ではそれは不可能だ。カリキュラム上、グループワークを前提として科目が設定されているためだ。(たとえば話し合いそのものの練習をするような授業がある。)換気とマスクありでの打ち合わせでも感染するという報道もあったが、そうであれば、大学の授業でも確実に感染は起こる。
 
理由6 「自粛要請」との違い
現状、多くの人が感染対策のために自由を制約されている。飲食店の営業自粛をはじめ、さまざまな行動を自粛するよう呼びかけられている。「自粛要請」が長引くにつれ、これに対する反発も大きくなっている。つまり、感染対策のような目的のためであれば自由を制限することが許されてよいのか、という問題が生じている。一般に、パターナリズム的な自粛要請と個人の自由の関係は公衆衛生の分野における非常に難しい問題であり、今回もそれが前景化している。
 
一見すると大学の対面授業とオンライン授業の問題も、これと同じ構造のように見えるかもしれない。すなわち、オンライン授業を実施することは、学生に自粛を促すことであり、対面授業を実施することは、学生に通学する自由を認めることであるように見えるかもしれない。
 
しかし、実際には、この二つの問題はパラレルになっていない。なぜなら、対面授業は通学の自由を認めることではなく、学生に通学を強制することだからである。例えば感染が怖いといった理由で登校したくない学生も、対面授業が実施されれば登校せざるをえない。登校しなければ、単位を落として留年することになるからだ。自粛要請をやめれば、飲みに行きたい人は行けるようになるが、行きたくない人は無理にいかなくてもよい。しかし、オンライン授業を対面授業に切り替えたら、大学に来たくない学生も来なければならなくなる。大学に来たい学生に、来る自由が認められるわけではない。これは根本的な違いである。
 
自由を尊重するなら、対面授業ではなくハイブリッド(ハイフレックス)授業を実施すべきだろう。しかし、これもあまりうまくいっていない。教員は人間なので、画面と教室の両方を一度に見ることはできない。オンラインの学生にとっても、対面の学生にとっても、授業の質が大きく落ちることを受け入れてもらうしかない。また、選べるようにすると多くの学生がオンラインを選び、対面での授業が成立しにくくなるという話も聞く。理想を言えば教員数を二倍に増やし、同じ授業をオンラインと対面でそれぞれ開講するべきだろうが、そんな予算も人材もないことは明らかだ。
 
理由7 鬱には治療法があるが、コロナにはない
一日中家にいることは健康に悪い。私もずっと家に閉じこもっているのは苦手なほうだから気持ちはわかる。長期間のオンライン授業が続けば、精神面に問題をきたしたり、体調に影響することもあるだろう。これはもちろん非常に重要な問題である。大学としても、この面で学生の健康を守る方策を考えるべきである。
 
しかし、その方策として対面授業を行うというのはあまりにも短絡的である。このような立論では、オンライン授業による健康リスクと、対面授業による健康リスクを天秤にかけることになる。どちらも問題になっているのは、同じ「学生の健康」だ。そしてどちらのリスクが大きいかといえば、対面授業の方だと言わなければならないように思える。
 
オンライン授業によって生じうる病気として、鬱病を考えよう。うつ病はときには人の命を奪うこともある恐ろしい病気で、決して軽くみられるべきではない。しかし、COVID-19と比べたときにどちらが恐ろしいかということになれば、話は別である。第一に、うつ病は伝染病ではない。指数関数で増えることはない。第二に、進行も比較的ゆっくりである(というより、COVIDの進行が異常に早いと言うべきだが)。昨日まで元気そうだった人がいきなり生死の境をさまようということはない。第三に、うつ病は今ではよく知られた病気であり、薬やその他の治療法の研究も進んでいる。一方でコロナウイルス感染症には有効な治療がいまだ確立されていない。つまり、うつ病の方が、予防や治療の対策がコロナよりずっとしやすい。したがって、どちらの健康リスクがより大きいかといえば、この観点からみても、対面授業の方であろう。
 
注記:声を上げた学生は悪くない
私はここまで、対面授業を実施すべきではないと考える理由を述べてきた。この意味で、対面授業再開を訴える学生たちの主張を批判してきた。しかし、当人たちが苦しみを訴えていることそれ自体を非難するつもりはない。苦しみを発信することには意義がある。この感染拡大の状況下での対面授業という方法には賛同できないが、しかし苦しみを軽減するための他の方策が必要であると気づかせてくれたのは、学生たちの訴えである。
 
他方で、学生の訴えだけを見て、総合的な利害調整を行わない文部科学省には大きな問題があると考える。文部科学省は、学生からの対面授業再開を訴える声が大きかったことを、強硬に対面授業実施を推進する理由に挙げている。しかし、この判断には問題がある。対面授業を求める声が、遠隔授業延長を訴える声よりも多く寄せられるのはある意味で当然だ。なぜなら、昨年度は対面授業がごく少数しか行われていなかったからだ。昨年度、オンライン授業による苦しみや健康被害は現実のものであった。一方、対面授業による感染拡大は未然に防がれたために、現実のものとはなっていなかった。対面授業によって感染した学生やその家族から遠隔授業を求める声が上がるためには、実際に多くの学生が感染しなければならないだろう。感染が防がれたために、そうはならなかったのだ。
 
さらに重要なことだが、「大学で感染が増えて、学生が亡くなり始めてからでは遅い」のだ。「実際にコロナウィルスに感染した学生が増えて、そうした学生から多くの声が送られてきたら考えます」といって済ませるのは、権力を持つ者として責任ある態度とは到底言えない。実際に寄せられた声に耳を傾けることはもちろん大切だが、それ以外のリスクをも総合的に判断して利害を調整することが、決定権を持つ者の仕事である。この点で文部科学省は機能不全に陥っているように見えてならない。感染者数を単なる「数字」とみて、その後ろに実際に病で苦しみ、命をリスクにさらしている学生が存在することへの想像力を欠いているのではないだろうか。
 
結論
変異株による感染がますます拡大している現在の状況下では、対面授業のメリットをデメリットがはるかに上回っているように思える。キャンパスライフはもちろん大事だが、命には代えられない。対面授業を始められない状況を生み出しているのはパンデミックそのものであり、強いて言えば感染拡大を防げなかった政府の対応の失敗である。社会が元通りにならなければ、キャンパスライフも元通りにはならないのだ。こうした鬱憤の全てが、「オンライン授業」に不当に押し付けられ、学生の命を守るというもっと重要なことがおろそかにされているのではないだろうか。