川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

フランクファートの根源的洞察

最近はフランクファートの自律論に集中的に取り組んでいるが、ここにはフィヒテ的な反省の問題との興味深い類似があるように思う。
 
フランクファートにとっての中心的な問題に、欲求のような心的態度が「私のものである」とはどういうことか、というものがある。われわれはときに、およそ自分のものとは思えない欲求を抱くことがある。フランクファートがよく使うのは依存症患者の例である。薬物に依存している患者がその薬物を欲するとき、この欲求は本当にその人自身のものだとは言えない場合がある、とフランクファートは言う。
 
フランクファートによれば、欲求が自分のものであるということは、その欲求そのものを欲する、二階の欲求があるということ(より厳密には、その欲求が因果的な効力を持つことを欲する二階の意欲があるということ)である。しかしここに問題が生じる。その二階の欲求が私のものであることは、いかにして保証されるのだろうか? 二階の欲求を欲する三階の欲求によってであるとすれば、私たちは直ちに無限後退に陥るだろう。ある欲求が「私のもの」だと言われるためには、すでに別の欲求が「私のもの」と呼ばれていなければならないのだ。それでは最初の「私の欲求」はいかにして生じるのか?
 
この問題は、「フィヒテの根源的洞察」とヘンリッヒが呼んだ、自我と反省に関する問題と同じ形をしている。自我が存在するためには、自我がそれを自我として定立したのでなければならない。しかし、自我が存在する前に、自我を自我として定立する自我は一体いかにして存在するのだろうか? このいかにもドイツ古典哲学然とした問題が、フランクファートの中に見出されるのは意外かもしれない。しかし、考えてみれば、フランクファートにおいて問題になっているのはまさに行為者の反省性なのである。
 
コースガードのアイデンティティ論において、この問題はさらに鮮明になる。コースガードは、フランクファート的な階層理論による自由やアイデンティティの説明を、カントの自己立法の問題と関連付けるからである。カントにおいて、理性が自らに課す法が権威を得るのはなぜなのか。自らが自らにとっての権威となるためには、すでに自らが自らによって権威を与えられていなければならないのではないか。頭の中に渦巻きが出てくるような循環構造を持ったこの問いが、ここにも再び現れる。行為者性をめぐる現代の問題は、フィヒテ的な反省の問題の親戚だと言えるだろう。