川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

ヘーゲルと弁証法(ヘーゲル(再)入門ツアー・予稿)

 ヘーゲル(再)入門ツアーに向けて、ブレストと宣伝を兼ねて、(できればこの先もシリーズで)記事を書いてみたいと思います。


ヘーゲルは「正反合」と言ったか?


 高校倫理などの初級の哲学史では、哲学者はキャッチフレーズとともに教えられます。デカルトなら「われ思うゆえにわれあり」、ロックなら「タブラ・ラサ」カントなら「コペルニクス的転回」や「超越論的観念論」あたりがそれでしょう。ヘーゲルの場合、「弁証法」がそれにあたります。 

 それでは弁証法とは何でしょうか。テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)を止揚アウフヘーベン)したジンテーゼ(合)へと発展してゆく図式のことだ、というのが、教科書によく出てくる説明でしょう。もちろん教科書的な図式で、哲学者の思考をそのまま紹介することはできません。どうしても解像度が低くなってしまいます。しかし、それにしてもこの図式はあまりにもヘーゲル哲学とかけ離れています。

 最大の問題は、そもそもヘーゲルは「正反合」とは言っていないということです。不在の証明になるので完全に検証することは難しいのですが、、さしあたりはアクセスしやすい文献として、加藤尚武氏による辞書項目を提示しておきたいと思います。

kotobank.jp

 

「正反合」の何が問題か


 「正反合」の図式だけ取り出すことの大きな問題は、単に「折衷案を考えよ」と言っているにすぎないように見えてしまうことです。小池百合子東京都知事が「アウフヘーベン」という言葉を使ったとき、テレビのワイドショーでは「いちご」と「大福」をアウフヘーベンして「いちご大福」を作る、という例が用いられていたと記憶しています。実際、弁証法アウフヘーベンという言葉は、一般的にこのような意味として理解されているように思います。

 しかし、これは哲学と言えるかどうかすら微妙です。むしろ、ある種のクリティカル・シンキングの方法論と言うべきでしょう。もちろんそれは有用な考え方ではありますが、ヘーゲルの「哲学」がここに集約されるとすると、ヘーゲルにはそもそも哲学がないかのように見えてしまいます。また、「対立する意見を折衷する」という考え方が、1800年ごろのヘーゲルによって初めて提示された、とするのも、常識的な感覚からかけ離れています。それまでも人類は折衷案を考えながらやってきたはずです。

 とはいえ、私はここで、「弁証法警察」がやりたいわけではありません。このような図式で弁証法アウフヘーベンを理解することは、ヘーゲルの術語の理解としては誤解であるにせよ、まさにクリティカル・シンキングの方法論としては有効です。「折衷案を考えるための思考法」に「弁証法」という名前がついているのはそれなりに便利でもあるとも思います。

 私がここで問題にしたいのは、この通俗的な意味での「弁証法」を知っていても、ヘーゲル哲学入門にあまり役立たないということです。デカルトの「われおもうゆえにわれあり」やカントの「コペルニクス的転回」についてなんとなくイメージを持っておくことは、もちろん注意深さは必要ですが、多少の誤解や過度なデフォルメを含んでいたとしても、それなりに入門に役立ちます。しかしヘーゲルの「弁証法」はそうではないのです。『弁証法」はもちろんヘーゲル哲学の鍵概念ではありますが、ヘーゲルを呼んでも、弁証法=正反合という方法論についてまとまって論じられている箇所は出てきません。それとはあまり関係なさそうな、しかも非常に難解な叙述が続き、読者は取り残されることになってしまいます。

 このことは、この図式で比較的うまく捉えられる箇所だけがヘーゲルの思想として取り出されてくるという事態も生んでいるように思います。これがもっとも顕著なのは高校倫理で、まるで正反合の弁証法と、目的論的な歴史哲学、それに社会哲学における家族・市民社会・国家および法・道徳・人倫の「正反合」だけがヘーゲル哲学であるかのように書かれてしまっています。(ちなみに今年のセンター試験では、このようなヘーゲル理解に基づいた問題が出題されました。)しかしこれはヘーゲル哲学のほんの一面にすぎません。社会思想は『法の哲学』をベースにしていますし、歴史哲学は『歴史哲学講義』をベースにしたもの。主著『精神現象学』や『大論理学』の内容とは異なります。カントにたとえれば、『永遠平和のために』だけが紹介され、三批判書には一切触れずに、これがカント哲学だと言われているかのような違和感があります。

弁証法」をどう扱うか


 そうはいっても、正反合の弁証法ヘーゲル哲学ではない、と言われると、ヘーゲル哲学のイメージが全く抱けなくなってしまうという方も多いでしょう。この問題への処方箋として、「弁証法」と「アウフヘーベン」を切り離して考えておくことが、入門には役立つのではないかと思います。

 「弁証法」は、極限まで解像度を落として言えば、「二つの考え方の対立」に注目する考え方のこと。カントが自由と必然性の対立などの問題を論じる箇所は「弁証法」と同じ「ディアレクティケー」という言葉(「弁証論」と訳される)で名指されますが、基本的にはこれと同じ意味でヘーゲルはこの語を用いていると思います。ヘーゲルにおいて弁証法が鍵概念であるというのは、様々なトピックに関してこのような対立図式がよく出てきますよ、ということであって、「弁証法」という方法論についてヘーゲルがまとまった論考を残していますよ、という意味ではないのです。

 この弁証法と、「アウフヘーベン」はさしあたり独立に理解できます。ドイツ語のアウフヘーベン(aufheben)には、「拾い上げる」と「捨てる」の両方の意味があります。そして、ヘーゲルはしばしばこの多義性を強調し、利用しています。ここで注意すべきなのは、「アウフヘーベン」という語そのものには、「対立物を総合・折衷する」という含みはない、ということです。

 「アウフヘーベン」にもっとも近い日本語は、「洗練させる」ではないかと私は思っています(もちろん同じではありませんが)。アウフヘーベンは必ずしも対立物の総合ではありません。そうではなく、一つのもの(概念)をよく見て、その問題点を見つけ、それを取り除いてより良質なものを作り出す。これがアウフヘーベンの核となるイメージです。おいしいコーヒーをいれるには、問題のある「欠点豆」を取り除く作業が非常に重要だと言いますが、これなどが「アウフヘーベン」の語感に非常に良く合う例だと思います。悪いものを「捨てて」、よいものを「拾い上げる」。この両者を合わせて、「アウフヘーベン」と言うのです。

 たしかに、弁証法アウフヘーベンの両者を合わせて考えると、「対立物それぞれの悪いところを取り除いて、良いところを合わせて折衷する」という、おなじみの「正反合」に近い図式が出てきます。しかし、実際のヘーゲルのテクストでは、これらは常に一緒に出てくるわけではありません。バラバラに出てくる箇所を全て「正反合」で無理に読もうとしてもうまくいきません。


ヘーゲル(再)入門ツアーでは、ここで論じたことをよりかみ砕いてご紹介する予定です。もちろんその過程で話題を取捨選択したり、別の話題を選択したりする可能性もあります。「ヘーゲル(再)入門ツアー」の詳細は、下記リンクから、どうぞよろしくお願いいたします。

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