川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

ツイートになり損ねたメモたち

ここ数ヶ月、メディアとしてのTwitterの使い方を模索してみたが、やはりどうしてもコスパが悪いというか、気が散ったり気を遣ったりするマイナスの方が大きくなってしまう。まあ私の意志が弱いだけではあるが。自分がやりたいことがSNSに合わなくなってきたということかもしれない。(余談だが私はコスパは大事だと思う。コスパを無視してやっていけるほど人生は長くない。)
少し寝かせてからツイートしようかと思っていたメモがあるのだが、代わりにブログの形で放出しておくことにする。たくさん並べると、Twitterというか文章によるSNS、しかも双方向的でないものというのは、要はアマチュアによるアフォリズムなのだと気づかされる。
 
 
(1)もう昨年のことになるが、ポピュラーすぎるのでなんとなく読まず嫌いしていた齋藤孝『読書力』(岩波新書)をオーディブルで聴いた。読書力を身につけるための本ではなくて、読書力の大切さと授業づくりの提案を説く本だった。高校生や大学生にモチベーションを高めてもらうにはよいかも。ことしの初年次ゼミで扱ってみることにする。
 
 
(2)宮崎に就職して7年。徳島から数えれば、2023年度で地方大学に勤めて10年目。なぜ地方に(とりわけ文系の)大学が必要か、ということを折に触れて考えざるをえない人生となったが、これはなかなかに難しい問いである。可能な答えとしては例えば次のようなものがある。
 
1.卓越主義。つまり、地方で生きる人々ひとりひとりがその知的能力を開花させることが無条件に望ましい、ないしは良き結果を必ずやもたらす、という主張。(だが、これは道徳的に問題含みの帰結を含みうるかなり論争的な主張である。)
2.ラディカルな地方自治、ないし文化的自治の必要性。地域から大学が失われれば、本当の意味での自治の能力を失われるがゆえに問題がある。(だが、これは中世的な大学の理念をかなり引きずった立場であり、現代日本地方自治はそもそもそんなにラディカルなものにはなっていない。)
3.大都市の大学院への進学ルートの確保。アメリカのリベラルアーツカレッジに近い位置づけ。(だが、日本では大学院進学率自体が低く、このルートを選ぶ学生はあまり多くない。)
4.ソーシャル・モビリティの確保。3に少し似ているが、日本ではこの言い方がより妥当だろうし、学生やその保護者から見ればこれが大きいだろう。ようは就業機会が広がるということ。(これはおそらく最も現実に則しているが、大学全入時代、18歳人口が先細る社会で、この観点から見た大学の求心力は縮小せざるを得ないだろう。)
5.学問研究を地域のレベルで支えていくという志。学問への投資は未来への投資である。全国津々浦々、他地域の投資にフリーライドせず、自らの手で学問を支えていくべきである。(だが、これはほとんど大学側の(というか私の)願望に近い。少なくともこれを掲げて選挙で勝つのは難しいだろう。)
6.人の流動性、および若者人口の確保。(これは実際に無視できない大学の役割だと思うが、そもそも大学に若者を呼び込むだけの魅力があることが前提となる。)
7.その地域で働く人たちにとっての、リカレント教育の拠点として。(だが、そのためには地域の企業が、人材に投資するというマインドを持ち、かつその際にリベラルアーツの学びを重視するのでなければならない。)
どれも問題含みであり、決定的とは言えないのだが、しかし合わせ技で、かつ現状維持バイアスと相まって、どうにか大学が維持されている、というのが実情であろう。
ということをつらつら考えたりしているのだが、しかしよく考えると地域にどんなニーズがあるのか、私には実はよくわかっていないのである(宮崎出身であるにもかかわらず。とはいえ高校生までの子どもと、アウトサイダー的な大学教員としてしか宮崎に住んでいないのだから当然である)。少なくとも普通に哲学を研究していて、地域のニーズを知れることはほぼない。そこをしっかり掴むためには、学際研究ないし本気の副業をやるつもりで地域に関わっていく必要がある。
ということは、「本業」と位置づける哲学研究のエフォートを削るしかないということである。とはいえ地方に大学がある状況を維持することは、日本における哲学研究のレベルを維持するためにも必要なことであり、それはひいては自分の哲学研究の将来にわたる読者を確保することでもある。(これも他の研究者にあてはまるかはわからないが、私は読者のいないものを書こうとは思わない。)言い換えれば、地方大学と地域の共栄を探ることは、読者を作り出すという仕事の一部でもある。ここまでくると研究を続けていく(そしてそれが自分の死後にまで続いていく状況を作り出す)ことの根幹に関わるとも言える。
 
 
(3)AIが書いた65点ぐらいの文章が蔓延するようになったら、これまで65点だった文章は一律で50点不合格にするという方向もありうるかもしれない。これはつまり、「AIでも書けるような文章なら評価に値しない」と宣言することである。そうすると「AIが書いた65点の文章を100点に校訂するスキル」が必要ということになる。しかし、「AIに頼らずに65点の文章を書くスキル」がない人間には、AIが書いた文章を100点に校訂することは難しいように思う。(手動で車を運転できない人が、自動運転車の判断ミスを手動で補えるだろうか?)
 
 
(4)授業と研究への時間配分は、「目の前の学生への奉仕」と「全人類のための知識創造+将来の学生への奉仕」へのリソース配分だということがやっとわかってきた。どちらを削るのも苦しいが時間は有限。FDでは「四つの学識」論が有名だが、答えをくれる理論というよりは考えるための取っかかりくらいに思った方がいいだろう。
 
 
(5)学問は社会と緊張感のある対話関係を築いていかなければならない。社会に迎合するのではなく、しかし背を向けるのでもなく。そのためには学問の世界にもしっかり身を置きながら、その外にいる方々に向けての発信もやるべきだということになる。社会と学問の緊張ある対話を作る仕事は伝統的には「知識人」としての仕事ということになるのかもしれないが、アマチュア性を押し出したサイード的な知識人像は、時代に合わなくなって来ているようにも思う。(真面目に細々とやってきた学術会議があれほどバッシングされる時代である。)
科学コミュニケーションは、この時代の新しい知識人像を模索する試みの一つとみることもできるかもしれない。しかし、アマチュアとしての知識人の時代は終わり、プロ知識人と研究者がはっきり分かれていく、というのも違うだろう。全ての学者が最低限の科学コミュニケーションを履修しなければならない、とすれば、科学コミュニケーション教育はFDの一部、ということになるかもしれない。
 
 
(6)この春には2冊目の入門書をやっと書き始めることができた。一般読者に向けた文章を書くのはとても楽しい。がんばります。
 
 
(7)ダメット『FPL』は今年で50周年になるのだろうか。実は私のブランダムは半分はヘーゲルではなくダメットから。在籍していた当時の東大哲学研究室でダメットが大流行していなかったら、当時邦訳のなかったArticulating Reasons(『推論主義序説』)の語用論的意味論や主張可能性主義がどんな問いに答えようとしているのか、理解することはできなかったと思う。(ただし、あの分厚いFPLを不真面目な学生だったわたしはほとんど読んでおらず耳学問でしかない、ということは告白しなければならない。自力で学んだのではなく、尋ねれば(場合によっては尋ねなくとも)教えてもらえるありがたい環境にあったということである。)
 
 
(8)哲学書では思考のプロセスを明示的に書き、それを読者に追体験してもらうことがよくある。しかしこれをやると、パラグラフ・ライティングの原則から大きく外れてしまう。なぜなら、思考のプロセスをたどれば当然、結論が最後に来てしまうからだ。
ところでこの書き方はしばしば入門書で用いられる。これは初年次教育においては結構悩ましい問題である。読みやすい入門書であればあるほど、基本のパラグラフライティングを学んでもらうには向かない、ということになるからだ。(念のために言えば、それは書き手の技術不足を意味しない。初学者向けであればあるほど、論証にとっては「枝葉」であるような部分、読者の日常生活から専門的な議論へと入っていく道しるべとなるような、「マクラ」的な記述が必要になるということである。)

大学からの学び・大人の学びと読書

 高校までは「勉強」と言えば、授業を受けたり、動画を見たり、問題を解いて反復練習をすることでしょう。しかし大学の学びや大人の学びでは、本を読むことが「勉強」において最も重要な活動になります。なぜでしょうか。この記事では、これについて考えてみます。なお、この記事は大学1年生向けの授業の副産物であり、主にこの春から大学生になる皆さんに向けたものです。しかし、大人の学びについて考えていただく材料にもなると思います。

 高校までの学びは、全員が同じ「大学入試」という目標に向かうために、学校や塾がお膳立てしてくれたものでした。(もちろん大学入試を目指さない実業系の高校もありますが、これは大学生向けの文章ですので、大学入試のためのカリキュラムを持った高校や塾を想定しています。)目標とそのためのタスクがすべてパッケージで提供されて、いわば説明書通りに組み立てていくのが高校までの学びでした。

 しかし「大学の学び」そして「オトナの学び」は、それぞれが学びたいことを見つけて、自分なりに目標を建て、自分専用にカスタマイズして学ぶものです。全員共通の目標はありません。これまでの学びは、既に書かれた絵に、指定された色を塗っていくようなものでした。これからの学び、そしてこれからの人生では、真っ白なキャンパスに自分でゼロから絵を描いていくことが「学び」になります。これに適応できるよう、頭の使い方を変えていく必要があります。

 大学からの学びで重要になるのが読書です。高校までは指定された教科書や塾のテキストを中心に、問題演習を繰り返すことが「勉強」でした。これからは、自分なりに読むに値する本を選別して、その内容をインプットしていくことが「勉強」の中心になります。

 「勉強」から「研究」になる、という言い方がされることもありますが、私はそれよりも、「高校の勉強」と「専門家の研究」の中間に、「大学生の学び」「オトナの学び」があると考えた方が良いと思います。オトナの学びはインプット中心である点では「研究」より「勉強」に近くなります。しかし、何をインプットすればいいのかということを自分で決めていく点が、高校までの学びとは全く違います。

 この学びには、問題集がありません。動画教材もありません。なぜなら、その学びはあなただけのための学びだからです。問題集や動画を作るのには、膨大なコストがかかります。あなただけにカスタマイズされた問題集を作っても、採算が取れません。動画を作っても、再生数が稼げません。だからあなただけの目標を追いかけるためには、本を読むこと、読書から学ぶことがどうしても必要になります。

 一方で、「読書」についてもこれまでとは違う捉え方が必要になります。多くの方にとって、高校までの読書は、「娯楽のための読書」だったと思います。この点では、マンガだろうが小説だろうが同じです。

 「娯楽のための読書」をやめる必要はありませんが、これからはそれに加えて、自分なりの「学びのための読書」もしていかなければなりません。「この本は読むに値する本なのか?」と考えながら、本を選んで読み、特に重要だと判断した本についてはノートをまとめたりして深く理解しながら読んでいきます。これは「大学での学び」の中心が、自分なりに読むに値する本を選別して、その内容をインプットしていくことになることと連動しています。

 まとめると、大学では、勉強は読書になり、読書は勉強になります。(もちろん、語学などの一部の科目や、資格試験のための科目は除きます。)これにいち早く気づくことが、大学生活で最高のスタートを切るコツです。初めは戸惑うかもしれませんが、ペースさえつかめれば、これまでよりずっと広く深い、創造的な大人の学びの世界に踏み出していくことができます。

『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』(光文社新書)で目指したこと

昨日、拙著『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』(光文社新書)が発売されました。「これからのビジネスに必要なのは哲学だ」という力強いコピーも(このコピーは私が直接考えた者ではありませんが)つけていただき、大変ありがたいのですが、逆に、川瀬は急にビジネス書を書いたりしてどうしたのだ、と思われている方もいるかもしれません。また、ビジネスに哲学が使えるなんていかにもうさんくさい、本当に役立つのだろうか、と購入を迷っている方もいるかもしれません。そのような方の検討材料にしていただくためにも、この本の執筆の経緯について少し書いてみたい思います。
 
光文社新書」というチャンス
Amazon等で書影をご覧いただくとわかりますが、本書は帯でも「ビジネス」が強く押し出されています。これを全面に押し出すことにしたのには、ビジネスパーソンの皆さんにとって、哲学が必要な時代になっているのではないか、という想いからです。(編集者さんから、「ビジネスパーソンに手に取っていただける本を」と言われていたということもありますが、決してその役回りを押しつけられたわけではなく、楽しみながらみずから引き受けることにしました。)
 
同時に、光文社新書という、ビジネスパーソンに多く読まれるレーベルから本を出す機会は、得がたいものだとも考えました。光文社さんと仕事をさせていただくのはもちろん私にとって初めてのことでしたが、光文社といえば、専門知と一般読者をつなぐユニークな仕事を続けられている会社だというイメージがありました。カッパ・ブックス以来の伝統と言ってもよいのでしょうか、私の学生時代にも、新書ブームを作った『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社新書)や異例のヒットとなった『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫)が発売されています。後に研究者になるような学生でしたので書店は好きでしたし、また、書店でアルバイトをしていた時期もあったので、どういった方が光文社の棚の前に立ち、本を買っていくか、ある程度は読者の顔を思い浮かべることもできました。
 
これからも地道に研究を続けていれば、学術的な本を書く機会はおそらく作れるでしょう。しかし、ビジネスパーソン向けの本、ビジネスと哲学を繋ぐような本を書くチャンスは、普通の研究者人生ではなかなか得られるものではありません。この貴重なチャンスを生かさない手はないと考えました。
 
「専門的な知見をビジネスにつなげる」スタイルへ
上のような意気込みで、ビジネスパーソンに読んでもらえる本にすると決めたものの、当然ながらそれを実際に書くのは大変な作業でした。ビジネスパーソン向けに書くといっても、それはそれで甘いものではありません。なにしろ私は研究者であって、ビジネスの現場のことは直接は知らないわけです。安易にビジネス書に「寄せて」書いたのでは、本職のビジネス書の著者の皆さんに敵わない、中途半端なものになってしまいます。
 
読者のニーズという意味でも同様のことが言えそうです。日々の仕事の直接的な効率化のために役立つ本を求めている方は、タイトルに「ヘーゲル哲学」と入っている、大学の教員が書いた本を買わないでしょう。(実際、日々の仕事の効率化に直接役立つ本は、本書ではなく、例えばタスク管理や時間管理について書かれた本でしょう。)それよりも、もう少し射程の長いアドバイスや、一歩立ち止まって考えを深めたい読者にこそ、私が書く本のニーズはあるのではないか。こういったことを考える中で、自然と、専門的な知見をビジネスに関連付けながら伝えて、読者自身が考えることを促す、というスタイルが定まりました。
 
というわけで、「明日の仕事にすぐに役立つTIPS」を求めている方には本書はおすすめできません。しかし、それ以外の理由で哲学が気になっている方には、新しい発見をしていただける本になっているのではないかと思います。また、ビジネスはどうでもいいから哲学について知りたい、という方の興味にも本書は答えられるはずです。
 
もう少し書きたいこともありますが、今回はここまでにします。『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』、ご興味を持たれた方はぜひ手に取ってみてください。
 
 

大学での対面授業を再開すべきでない7つの理由

昨年度、多くの大学で対面授業が禁止され、オンラインでの授業が実施された。感染対策には一定の効果があったのではないかと思うが、キャンパスライフが送れないという学生からの不満もあった。ニュースやインターネット上でも議論が起こっていたため、ご存じの方も多いことと思う。
 
そして本年度。文部科学省は、大学に対面授業を実施するよう強く求めている。「安易にオンラインに流れることがあってはならない」という、文部科学大臣の高圧的な発言まであり、ますます態度を硬化させている。(この発言は現場の苦悩をあまりにも無視した発言であり、大いに士気を下げるものであったと思う。)ともあれ、こうした一連の求めに応じて、多くの大学が「原則対面授業」の方針を打ち出し、実際に対面授業が実施されている。緊急事態宣言の発出と延長もあり、大学現場では大きな混乱が生じている。
 
一方で、周知のとおり、第4波と言われる感染拡大は現在も続いている。多くの地域で過去最高の感染者数が報告され、全国的に爆発的な感染が生じつつある。以前よりも感染しやすい、若者も重症化しやすいといった、連日マスコミをにぎわせている変異株絡みの不穏な情報も多い。(ただし、十分なデータ解析はなされていないのが現状だろう。)
 
私自身は、現状で対面授業を実施することには強く反対の立場である。もちろん組織の一員として雇用され生活の糧を得ている以上、大学全体の方針には従わざるを得ない面もある。しかし、これほどの感染拡大の中で対面授業を強行することは不合理であり、人道的にも問題があるとも考えている。以下、その理由を詳しく記す。
 
理由1 学生の健康と命を守る
大前提として確認しておくが、対面授業には感染の危険があり、遠隔授業にはない。そして、感染の危険があるということは、健康が脅かされる危険があるということである。重い後遺症が残るという情報もある。また、重症化して最悪の場合命を落とすリスクがある。
 
キャンパスライフが送れない学生が気の毒だとは私も当然思う。なるべく学生が孤立しない支援をすべきだとも思う。しかし、命を守ることはキャンパスライフを守ることに優先されるべきだ。まずはこの点を確認すべきであろう。学生たちが社会全体のために、あるいは高齢者の命を守るためにとばっちりを受けているという論調もある。確かに昨年度のうちはそれに近い側面もあっただろう。しかし現在ではそれ以上に、学生自身の命と健康を守ることが喫緊の課題である。変異株の拡大で、なおさら学生たち自身の命に危険が迫っている。
 
理由2  「攪拌」効果
大学での対面授業は、大学生の他の活動や、あるいは小中学校・高校、職場と比べても、感染リスクが格段に高いように思える。なぜなら、対面授業は、学生たちを「攪拌」してしまうからである。
 
小学校や中学校、高校には学級がある。そして、基本的には学級を単位として授業が実施される。一部移動教室や行事などはあれど、多くの授業で席は固定されている。また、多くの職場でも席は固定されている。席を固定しない「フリーアドレス」が増える兆しがあったにせよ、主流とはいいがたく、また感染防止の観点から見直しの動きもある。昼食時などに、他の部署との接触をなるべく減らすような動きもある。
 
これに対して、大学には学級という単位がない。また、多くの大学では、選択授業の割合が非常に多い。(資格取得のために大量の必修科目がある医歯薬系などはその限りではないが。)選択科目が非常に多いということは、1コマごとに授業に集まる顔ぶれが変わるということだ。
 
これは、感染防止と非常に相性が悪い。キャンパスに通う学生のうち一人が感染していたとする。この学生は毎時間別の学生と接触する。また、この学生と接触した学生も、毎時間別の学生と接触する。したがって、一人感染していれば、その日登校している1000人という規模のすべての学生に感染のリスクが広がりかねない。
 
さらには、昼食をはさんで授業がある場合には、多くの学生が学食や近所の食堂に集まって食事をする。全員が同じ場所に集まって食事をせざるを得ない状況が生じるのである。これもまた、感染防止の観点からは最悪であろう。
 
首都圏や関西の大学では、県境をまたいで通学する学生も珍しくない。しかもその数は、高校までとは比較にならないほど多い。こうした点に関して、文部科学省や各大学はどのように考えているのだろうか。
 
平時であれば、授業を選択できる仕組みや、学食に多くの学生が集まる仕組みは、キャンパスライフの大きな魅力である。これにより偶然の出会いも生まれて、交友関係が拡大するということもあるだろう。しかし、現状においては、このシステムにより、小中学校や高校、また多くの職場と比べても、大学での対面授業は、感染リスクが非常に高い。
 
理由3  学習の質
対面授業の方が、学習の質は高まるのだろうか。最終的にはデータを基にした研究が進められるべきであるが、少なくとも現時点で、対面授業の方がオンライン授業より効果的であると結論づけることはできないだろう。しかも、そのメリットが感染リスクを考慮してもなお覆らないほど大きいと言えるかというと、なお心許ない。
 
注意してほしいのは、ここで問題になるのが、オンライン授業と、2019年度までに行われていた通常授業の比較ではないということだ。実際に行われるのは、通常授業ではなく、「感染対策をした対面授業」である。オンライン授業にはもちろんさまざまな制約があるが、「感染対策をした対面授業」にはそれに劣らず様々な制約がある。
 
最も大きな問題は、感染対策をしながらの対面授業では、ペアワークやグループワークのような学生同士の相互作用をなるべく減らさざるを得ないということである。これを減らすということはすなわち、家で動画を見たり本を読んだりするのに限りなく近い授業しかできないということだ。危険を冒して対面授業を実施する意味は半減してしまう。逆に、対面ならではの良さを出そうとすると、それは大きな感染リスクを伴う。100人の学生に、2メートルの距離を開けて、ペアで話してもらうことを想像してほしい。声が聞こえないから、大声を出さざるを得ないだろう。ほかのペアも大声を出すから、余計に声が大きくなる。これを避けるなら、やはりペアワークそのものを中止するしかない。
 
また、オンライン授業にはオンライン授業ならではの良さもある。実施形態によっては動画を何度も見直すこともできる。個人差があるが、チャットの方が質問しやすい学生もいるだろう。グーグルスライドなどを活用したグループワークも、オンラインならではの効果的な方法である。これに対して、「感染対策をした対面授業」には、「ならではの良さ」はない。どうあがいても、通常の対面授業の劣化版にしかならないのは明らかである。この点でも、オンライン授業よりも感染対策をした対面授業の方が学習効果が高い、という判断には、首をかしげざるをえない。
 
理由4 キャンパスライフ
対面授業が叫ばれる最大の理由は、「キャンパスライフ」であろう。しかしこれにも疑問がある。なぜなら、「感染対策をした対面授業」は、これまでのキャンパスライフとは似ても似つかないものになると思われるからだ。この点に関しては、文科省の主張は混乱している。
 
感染対策を徹底するなら、ただ授業が対面になるだけで、それ以外のコミュニケーションはすべて禁止すべきだろう。すると、キャンパスライフはこうなる。授業中は、ただ座って黙って聞いてもらう。ペアワークやグループワークは行わない。休み時間には友達と会話をしてはならない。空きコマも同様である。空き教室での談笑などもってのほか。じっと黙って指定の場所で待機してもらう。食事も友達とは取れない。一人で、誰ともひとことも会話せず食事を済ませ、しかも学食の席数が足りないから大急ぎで食べて移動してもらう。サークル活動ももちろん不可能である。これが求められていたキャンパスライフだろうか? 
 
そうではないのだとすると、感染対策を「徹底しない」ことが求められていることになる。休み時間や空きコマには友達と少しくらい喋っても構わない。昼食くらいは一緒に食べてもよい。このように軽く考えられているのだろうか。対面授業を実施することは実質的にこれらのコミュニケーションを推奨していることになるのではないか。ちなみに実際の学生の様子を見ていても、当然のように休み時間には喋っている。これを禁止するなどできない。
 
つまり、「感染対策を徹底したキャンパスライフ」などありえないのである。学生を大学に来させる以上、「徹底した感染対策」などできない。もしできたとすれば、そこには「キャンパスライフ」はない。オンラインで映像を見るのとあまり変わらない授業があるだけである。
 
理由5 アクティブ・ラーニング
政府関係者や医療関係者の発言を聞いていると、「授業は黙って聞くだけだから感染リスクが低い」と言われることがある。しかしこれは現在の大学教育を全く知らない人の発言に思える。昨今の大学は、学生が黙って聞くだけの授業を減らすべく努力してきた。
 
文部科学省はずっと「アクティブ・ラーニング」を推奨してきた。アクティブ・ラーニングとは、簡単に言えば、ペアワークやグループワークを取り入れて「学生が喋る」タイプの授業のことだ。
 
つまり、最近の大学では、授業中に学生は大いに喋るのである。演習系の科目では、教員が喋る時間より学生が喋る時間の方が長い。例えばライブやコンサートの客よりも、授業を受けている学生の方がよくしゃべる。
 
講義系の科目であれば、例年と内容を変えてペアワークを減らすことも可能である。しかし、演習系の科目ではそれは不可能だ。カリキュラム上、グループワークを前提として科目が設定されているためだ。(たとえば話し合いそのものの練習をするような授業がある。)換気とマスクありでの打ち合わせでも感染するという報道もあったが、そうであれば、大学の授業でも確実に感染は起こる。
 
理由6 「自粛要請」との違い
現状、多くの人が感染対策のために自由を制約されている。飲食店の営業自粛をはじめ、さまざまな行動を自粛するよう呼びかけられている。「自粛要請」が長引くにつれ、これに対する反発も大きくなっている。つまり、感染対策のような目的のためであれば自由を制限することが許されてよいのか、という問題が生じている。一般に、パターナリズム的な自粛要請と個人の自由の関係は公衆衛生の分野における非常に難しい問題であり、今回もそれが前景化している。
 
一見すると大学の対面授業とオンライン授業の問題も、これと同じ構造のように見えるかもしれない。すなわち、オンライン授業を実施することは、学生に自粛を促すことであり、対面授業を実施することは、学生に通学する自由を認めることであるように見えるかもしれない。
 
しかし、実際には、この二つの問題はパラレルになっていない。なぜなら、対面授業は通学の自由を認めることではなく、学生に通学を強制することだからである。例えば感染が怖いといった理由で登校したくない学生も、対面授業が実施されれば登校せざるをえない。登校しなければ、単位を落として留年することになるからだ。自粛要請をやめれば、飲みに行きたい人は行けるようになるが、行きたくない人は無理にいかなくてもよい。しかし、オンライン授業を対面授業に切り替えたら、大学に来たくない学生も来なければならなくなる。大学に来たい学生に、来る自由が認められるわけではない。これは根本的な違いである。
 
自由を尊重するなら、対面授業ではなくハイブリッド(ハイフレックス)授業を実施すべきだろう。しかし、これもあまりうまくいっていない。教員は人間なので、画面と教室の両方を一度に見ることはできない。オンラインの学生にとっても、対面の学生にとっても、授業の質が大きく落ちることを受け入れてもらうしかない。また、選べるようにすると多くの学生がオンラインを選び、対面での授業が成立しにくくなるという話も聞く。理想を言えば教員数を二倍に増やし、同じ授業をオンラインと対面でそれぞれ開講するべきだろうが、そんな予算も人材もないことは明らかだ。
 
理由7 鬱には治療法があるが、コロナにはない
一日中家にいることは健康に悪い。私もずっと家に閉じこもっているのは苦手なほうだから気持ちはわかる。長期間のオンライン授業が続けば、精神面に問題をきたしたり、体調に影響することもあるだろう。これはもちろん非常に重要な問題である。大学としても、この面で学生の健康を守る方策を考えるべきである。
 
しかし、その方策として対面授業を行うというのはあまりにも短絡的である。このような立論では、オンライン授業による健康リスクと、対面授業による健康リスクを天秤にかけることになる。どちらも問題になっているのは、同じ「学生の健康」だ。そしてどちらのリスクが大きいかといえば、対面授業の方だと言わなければならないように思える。
 
オンライン授業によって生じうる病気として、鬱病を考えよう。うつ病はときには人の命を奪うこともある恐ろしい病気で、決して軽くみられるべきではない。しかし、COVID-19と比べたときにどちらが恐ろしいかということになれば、話は別である。第一に、うつ病は伝染病ではない。指数関数で増えることはない。第二に、進行も比較的ゆっくりである(というより、COVIDの進行が異常に早いと言うべきだが)。昨日まで元気そうだった人がいきなり生死の境をさまようということはない。第三に、うつ病は今ではよく知られた病気であり、薬やその他の治療法の研究も進んでいる。一方でコロナウイルス感染症には有効な治療がいまだ確立されていない。つまり、うつ病の方が、予防や治療の対策がコロナよりずっとしやすい。したがって、どちらの健康リスクがより大きいかといえば、この観点からみても、対面授業の方であろう。
 
注記:声を上げた学生は悪くない
私はここまで、対面授業を実施すべきではないと考える理由を述べてきた。この意味で、対面授業再開を訴える学生たちの主張を批判してきた。しかし、当人たちが苦しみを訴えていることそれ自体を非難するつもりはない。苦しみを発信することには意義がある。この感染拡大の状況下での対面授業という方法には賛同できないが、しかし苦しみを軽減するための他の方策が必要であると気づかせてくれたのは、学生たちの訴えである。
 
他方で、学生の訴えだけを見て、総合的な利害調整を行わない文部科学省には大きな問題があると考える。文部科学省は、学生からの対面授業再開を訴える声が大きかったことを、強硬に対面授業実施を推進する理由に挙げている。しかし、この判断には問題がある。対面授業を求める声が、遠隔授業延長を訴える声よりも多く寄せられるのはある意味で当然だ。なぜなら、昨年度は対面授業がごく少数しか行われていなかったからだ。昨年度、オンライン授業による苦しみや健康被害は現実のものであった。一方、対面授業による感染拡大は未然に防がれたために、現実のものとはなっていなかった。対面授業によって感染した学生やその家族から遠隔授業を求める声が上がるためには、実際に多くの学生が感染しなければならないだろう。感染が防がれたために、そうはならなかったのだ。
 
さらに重要なことだが、「大学で感染が増えて、学生が亡くなり始めてからでは遅い」のだ。「実際にコロナウィルスに感染した学生が増えて、そうした学生から多くの声が送られてきたら考えます」といって済ませるのは、権力を持つ者として責任ある態度とは到底言えない。実際に寄せられた声に耳を傾けることはもちろん大切だが、それ以外のリスクをも総合的に判断して利害を調整することが、決定権を持つ者の仕事である。この点で文部科学省は機能不全に陥っているように見えてならない。感染者数を単なる「数字」とみて、その後ろに実際に病で苦しみ、命をリスクにさらしている学生が存在することへの想像力を欠いているのではないだろうか。
 
結論
変異株による感染がますます拡大している現在の状況下では、対面授業のメリットをデメリットがはるかに上回っているように思える。キャンパスライフはもちろん大事だが、命には代えられない。対面授業を始められない状況を生み出しているのはパンデミックそのものであり、強いて言えば感染拡大を防げなかった政府の対応の失敗である。社会が元通りにならなければ、キャンパスライフも元通りにはならないのだ。こうした鬱憤の全てが、「オンライン授業」に不当に押し付けられ、学生の命を守るというもっと重要なことがおろそかにされているのではないだろうか。

読書会における「グラウンドルール」の重要さ

哲学を学ぶ最も効果的で楽しい方法に、読書会を開催することがある。私も多くのことを読書会から学んだ。しかし、読書会はときには失敗してしまうこともある。だんだんと参加者のモチベーションが下がるのがわかるようになり、一人、また一人と集まらなくなる。スケジュールが合わない日が増え、最後にはなんとなく立ち消えになる。
 
こういった事態をなるべく防ぐためには、参加者の間でビジョンを共有しておくことが重要だ。そもそもどんな目的でその文献を読むのか。必要があって最後まで読み切りたいのか、それとも、読み切れなくてもよいから、滋味が出るまで噛みしめるような精読がやりたいのか。外国語文献であれば、語学の学習にどの程度重きを置くのか。もっと言うと、語学の能力が劣る参加者にどの程度合わせる用意があるのか。(このようにいったからと言って、語学が苦手な方にも恐れをなさないでほしい。読書会はそもそも、その言語の初学者の語学学習支援を兼ねている場合もある。そのような会では、初心者はもちろん歓迎される。)
 
会議のファシリテーションのための「グラウンド・ルール」という考え方も、読書会でも応用が利くだろう。どのような発言が推奨されるのか。何でも述べて良いのか。大演説をぶつことは許容されるのか。沈黙はどれくらいの時間続いても良いのか(10分以上沈黙が続く読書会もある)。一回にどのくらい進みたいのか。大学院のゼミなどと違って、参加者の属性がバラバラの読書会では、これらを名文化しておくことは有効だろう。
 
読書会におけるグラウンドルールとして私がおすすめしたいのは、「必要不可欠な場合を除いては空中戦を控えて、本文に書かれていることをもとに議論しよう」というものだ。「空中戦」とは、読んでいるいる本文の中で直接言及されない事項について、読書会中に議論することを言う(たしか、数回だけ出席した熊野純彦先生のゼミで使われていた言い回しだ)。これがあまりにも多いと、ほとんどの参加者は議論についていけなくなり、モチベーションが大幅に低下してしまう。とはいえ、これを一律に禁止するのもよくない。専門的な文献や古い文献になればなるほど、暗黙に前提されている知識があり、それを補いながら読まなければ正確に理解できないということが起こるからだ。
 
経験的には、自分がその分野に十分詳しく、かつ本文の理解に決定的に資するという確信がある場合にのみ、「空中戦」を許容するのがいいように思われる。言い換えると、「初心者にはおすすめできない」ということだ。「もしかすると関係あるかもしれない」くらいで話し始めると、実は全く関係がなかったということがしばしば起こる。異なる文献と関連付けるためには、知識やスキルが必要なのだ。(もちろんたまにはチャレンジして失敗することもあってよい。話してはみたがあまり関係がなくなってしまった、という失敗は私にもある。なるべくそのような失敗をしないようにしよう、と意識するだけでも、読書会の雰囲気が大きく違ってくる。)
 
では、初心者はあまり発言すべきではないのかというと、そんなことは決してない。自分が不案内な分野の読書会では、なるべく本文に即した疑問を提示するように心がけよう。「この言葉の意味がわからない」のような初歩的な疑問が、全員にとって本文の理解を促進するようなよい質問になることもある。そうでなくても、本文に即している限りで、その疑問にはほとんど全員が必ず興味を持つはずだ。参加者はその本を理解するためにわざわざ集まっているのだから。
 
なお、読書会については次の二つの記事も合わせて読むことをすすめたい。
 
 

philcul.net

 

note.com

 

 

※関係ありませんが、先月出た著書の宣伝です。この本の読書会をしていただいているようで、とてもありがたいです。

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

  • 作者:川瀬 和也
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
 

 

哲学書はなぜ間違いだらけでなければならないのか

図書館や書店で哲学書の棚の前に立つと、不思議な気持ちになることがある。ここにこれだけたくさんの本があるけれど、ここに書かれていることはほとんどが間違っている。同じテーマについて書かれた、何千円もする重厚な専門書を2冊選んで手に取ってみる。すると、全く逆のことが書かれていたりする。哲学という分野に特有とまでは言わないが、しかし哲学書に特にこの傾向が強いとは言えるだろう。
 
繰り返すが、哲学書に書かれていることは、ほとんどが間違っている。しかも、専門書になればなるほど、多くの間違いが含まれている。これは、私の本や、私以外の著者によって書かれた哲学書を読む方に、どうしても知っておいてほしいことである。
 
なぜそんなことが起こるのか。それは、間違うリスクをとることなしには、哲学的に意味のあることを言うことはできないからである。もちろんわざと間違いを言うわけではない。哲学者たちは皆、誠実に、自分が正しいと信じていることを書いている。しかし、それが十中八九間違っているということも、同時に確信している。学術書を公刊することを「世に問う」とは言うのもこのためだ。学術書を出版するということは、意欲的な読者に間違いを見つけてもらい、それを通じて学問そのものを発展させようとすることなのである。
 
したがって、哲学を学ぶということは、膨大な間違いのサンプルを学ぶということである。苦労して学び覚えたことのほとんどが間違っていたら、普通は嫌だろう。しかし、哲学においてはそれは普通のことだ。哲学を学ぶ際に、真理を直接に知ることはできない。これまでどのようなことが真理だと主張されてきたか、現在はどのような議論があるのか、ということを知ることができるだけである。
 
ただし、「哲学には答えがない」というのも間違っている。答えにたどり着くことは難しく、ほとんどの論者が失敗しているが、それでも哲学者たちは大真面目に答えを目指している。そうでなければ、哲学者たちは全員茶番か八百長をやっているということになってしまうだろう。もちろん細かいことを言えば、問題設定がうまくいっていないために実際に答えが存在しない場合もある(このような場合に問いは解決されず解消されるというような言い回しがなされたりする)。あるいは、実際に答えが出たり、哲学以外の分野で扱われるようになった問いもある(例えば、この世界は何からできているか?という古代ギリシャの哲学者たちの問いを現代において引き受けているのは、化学者や物理学者たちであろう)。しかし、現在哲学で問われている多くの問いは、答えがあるはずなのにまだ見つかっていないと信じられている問いである。
 
したがって私の本にも、多くの間違いが含まれているだろう。そのようなものを世に出すことは非常に恐ろしいことだ。それでもなお、少しでも人類の知識を増やすことに貢献できればと思うがゆえに私たちは本を書く。このようなことは大前提であるから、わざわざ本に書かれてはいない。しかし、自分が本を出すにあたって、改めて明示的に述べておきたかった。
 
なお、もし私の本や他の誰かの本に間違いを見つけたら、できれば優しく指摘してほしい(学術論文の形をとる場合にはその限りではないが)。自分が書いていることのほとんどが間違っている可能性を受け入れていたとしても、やはり自分の間違いを認めるのは楽しいことばかりはない。それでも哲学者が批判を歓迎するのは、批判者も自分と同じ、真理の探究という目的を共有していると信じるからこそである。議論の目的は相手を論破することではなく、協力して真理に近づくことである。
 

 ※宣伝です。本が出ました。ヘーゲル論理学の研究書です。

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

  • 作者:川瀬 和也
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
 

 

※記事タイトルを少し変更しました。

個をないがしろにしない全体論は可能か——『全体論と一元論』というタイトルについて

私の単著『全体論と一元論——ヘーゲル哲学体系の核心』が、今月末に公刊されます。
全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

全体論と一元論―ヘーゲル哲学体系の核心――

  • 作者:川瀬 和也
  • 発売日: 2021/03/25
  • メディア: 単行本
 

 「買ってください!あるいは買わなくてもいいけど図書館などで読んでください!あるいは読まなくてもいいけど積んでおいて機が熟すのを待ってください!」と言うだけでは芸がないので、ここでは『全体論と一元論』というタイトルについて少し述べてみたいと思います。

 
もともと本書は、「ヘーゲル『大論理学』「概念論」の研究」という博士論文に大幅な改稿を加えたものです。この悪く言えば無味乾燥なタイトルは、ある意味では博士論文としての堅実さを狙ったものでもありましたが、同時に、私自身が自分の研究を通じて伝えるべきメッセージを簡潔な形でまとめ損ねていたことを表してもいました。改稿にあたって、もちろん細かな論点について様々なコメントをいただき、大幅な修正を加えました。しかし同時に考えさせられたのは、本書全体を貫くメッセージは結局のところ何なのか、ということでした。
 
改稿を進める中で、改めてキーワードとして浮上してきたのが、「全体論」でした。ヘーゲルにおける「全体論」という主題は、アンビバレントな響きを持っています。いわゆるポスト・モダン思想においては、ヘーゲル全体論は目の敵にされたようなところもありました。様々なものの些細な、しかし大切な違いを無視して「全体」に取り込んでしまう、差異を無視して全てを同一性のもとに置こうとする、そんなイメージでヘーゲルが語られるのを聞いたことがある方もいるでしょう。ときには、「全体論」が「全体主義」と重ねられ、悲惨な戦争の記憶と結びつけられることすらあります。私には個々のヘーゲル論の妥当性を検討する力量はありませんが、しかし、大まかにこのようなイメージでヘーゲルが語られていたということを指摘するのは、少なくとも的外れではないでしょう。
 
他方で、英語圏の哲学においては、「全体論」が見直され、肯定的に語られることが増えてきました。戦後の分析哲学には、クワインの「経験主義の二つのドグマ」を記念碑とする、全体論という考え方を洗練させようとする流れが存在していました。英語圏におけるヘーゲル再評価の流れにおいても、マクダウェルやブランダムのヘーゲル論において、「全体論」は最も重要なキーワードの一つとなっています。フランスにおける全体論の不人気とは対照的と言っていいかもしれません。
 
このような議論状況の中でヘーゲルを、しかもヘーゲル論理学を論じるにあたって、「ヘーゲル全体論」とは一体何だったのか、という問題に取り組むことが、改めて課題として浮上してきました。私自身、ブランダムやマクダウェルにも影響を受けながらヘーゲルを読んできましたから、ヘーゲル全体論に哲学的な重要性が見いだせるはずだという確信を持っていました。そして、もしこの考え方に見るべきところがあるとするならば、それが単に個を無視し、差異を同一性に還元するだけの思想であるはずがない。むしろヘーゲルは、「個をないがしろにしない全体論」を打ち立てるという課題に取り組もうとしていたのではないか、と思われてきました。
 
したがって本書で私が挑戦したのは、ヘーゲル論理学を、「個をないがしろにしない全体論」を打ち立てようとするプロジェクトとして再構成することです。私の再構成が成功していないという評価はもちろんあるでしょう。また、私の再構成が成功していたとして、それを読んでもなお、「個をないがしろにしない全体論」というプロジェクトは破綻している、と診断する読者もいるかもしれません。それでも、ヘーゲルが初めから個をないがしろにするつまらない哲学体系を作ろうとしていたわけではない、ということについては、どうにか説得できるよう努力しました。
 
本書のタイトルのもう一つの構成要素である「一元論」についても、同様の状況を指摘できるでしょう。この考え方も、やはり一つの原理、同一性に全てを還元しようとする態度とも理解されかねないからです。しかし他方で、ここでもまた英語圏の哲学においては、「自然主義」と呼ばれる一元論的な態度が非常に有力なのものとなっています。自然主義には「自然」をどう理解するか、また、何に関して自然主義を採用するのかによって様々なバリエーションがありますが、共通するのは、「自然」なものによって全てを説明するのだ、という発想です。自然主義とは、何らかの意味での、自然一元論にほかなりません。
 
ヘーゲルは、二元論的な考え方を徹底的に避けようとしました。このヘーゲルの態度は「媒介」や「統一」の思想としてしばしば特徴付けられます。本書では、心身二元論に抗する、「生命」に着目した一元論の構想を、ヘーゲル論理学から取り出すことを試みました。この試みには様々に綻びもあると私は考えています。しかし、当時の未発達な生物学というリソースを最大限に活用して、一元論というプロジェクトを完遂しようとしたヘーゲルの姿から学べることは多いはずです。
 
魅力的な全体論と一元論を打ち立てることを目指した哲学として、いま、ヘーゲル哲学を再び正面から受け止めること。『全体論と一元論』というタイトルは、これが本書の課題であるということを示すためのものです。読者の皆さんには、私の、そしてヘーゲルのそのような挑戦を感じて頂けたらと思います。