川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

ヘーゲルに挫折しないための5冊

西洋哲学史のなかでもトップクラスのとっつきにくさで知られるヘーゲル。この記事では、ヘーゲル哲学を学ぶための入り口を提案します。この夏、新たな挑戦としてヘーゲルに入門してみてはいかがでしょうか。
 

1.ヘーゲル哲学入門の難しさ

西洋哲学に興味のある者でその名を知らぬ者はいない、と言ってもよい大哲学者ヘーゲル。しかし、彼の思想を学ぶことには独特の困難が伴います。

 

1.1 文章が難解すぎる

ヘーゲルの文章は非常に難解で、西洋哲学の中でもトップレベル。ヘーゲル自身も書簡でうまく書けないと嘆いており、専門の論文でも、例えば英語ならdense(濃縮された)やnotrious(悪名高い)と言った表現に何度も出会うほど。いきなりヘーゲルの著作を開いて、数行で挫折してしまった、という方も少なくないでしょう。

 

1.2 著書が手に入りにくい

哲学の古典と言えばまず思い浮かべる人も多いであろう岩波文庫。その岩波文庫で現在絶版になっていないヘーゲルの著作は、『歴史哲学講義』のみ。ヘーゲルの歴史哲学は確かに有名なのですが、西洋中心主義的な進歩史観が大々的に述べられており、ステレオタイプ的なヘーゲルのイメージを確認することはできても、ヘーゲル哲学本来の面白さに触れることは難しいのです。

 

ヘーゲル哲学をきちんと学ぼうと思ったら、何と言っても主著の『精神現象学』と『大論理学』を読まなければなりません。しかし、『精神現象学』は最も手に取りやすい平凡社ライブラリー版で、上下合わせて3500円ほど。『大論理学』に至っては、一冊5000円を超えるハードカバー三巻本でしか手に入らない状況です。ヘーゲルの著作は、知名度の割には、初学者がアクセスしづらい状況にあります。

 

1.3 研究書が多すぎる

ヘーゲルは日本で盛んに研究されてきた研究者で、多くの研究が蓄積されています。それ自体はよいことなのですが、新たに学び始めようとする者にとっては、これがかえってハードルになりかねません。なにしろアマゾンで検索しても、図書館のドイツ・オーストリア哲学の棚の前に言ってみても、新旧の研究書がずらりと並んでいる状態。しかも適当に手に取ってみると、難解なヘーゲル用語が並んでいて予備知識がなければ読めないような本もたくさん。何から手をつけて良いのか、学部生時代の私がそうだったように、困惑してしまうでしょう。

 

2.入門のための5冊

というわけで、この記事では、「今、ヘーゲルに入門したい人」が何から読むべきか、あえて5冊に限定して紹介してみたいと思います。5冊としたのは、一人の人間がモチベーションを保って読み通せる現実的な冊数だからです。その際、ヘーゲルの全体像がつかめることを条件とします。ただし、これらの条件のせいで選に漏れた著作についても、必要に応じて紹介していきます。なお、著者については敬称略とします。

 

長谷川宏『新しいヘーゲル』(講談社現代新書):新書で全体像をつかもう

新しいヘーゲル (講談社現代新書)
新しいヘーゲル (講談社現代新書)
 

 

まずは新書から。『新しいヘーゲル』は、ヘーゲルの翻訳でも知られる在野研究者の大御所、長谷川宏の著作。ヘーゲルの著作の長谷川訳については、かなり大胆な意訳が施されており、専門家の間では否定的な意見もよく聞かれます。しかし、長谷川の平易な語り口が、入門者にとって有益であることは間違いありません。私自身、大学2年生のころ、長谷川『ヘーゲル精神現象学』入門』を読んで、初めてヘーゲルが何を言っているかわかった、という経験をしたこともあります(この時期では「ヘーゲルの全体像がつかめる」という条件から外れるため選外)。

 

『新しいヘーゲル』は、新書サイズで、多岐にわたるヘーゲル哲学の全体像を、平易に示す、という挑戦的とも言える一冊。その分全体に薄味の叙述にはなっていますが、この一冊に目を通しておくことで、これからいろいろと勉強するうえで頭の中に地図を作っておけるはずです。

 

なお、同じく新書サイズでのヘーゲル入門には、権左武志『ヘーゲルとその時代』もあります。こちらはタイトル通り、歴史的な事項との関連やヘーゲルの国家観・歴史観について、ヘーゲルの生涯をたどりながら追うことができる一冊。しかし、歴史的事項との関連や実践哲学にウェイトを置いたアプローチであり、理論哲学については割愛されているため、今回は選外としました。逆にそういった点に興味がある方にはこちらもおすすめ。

 

加藤尚武ヘーゲル」、『哲学の歴史 7:理性の劇場』(中央公論新社):ヘーゲルの実像に迫る

 

中央公論新社から10年程前に公刊された『哲学の歴史』シリーズ。同シリーズを読むときには、最初から順番に読んでいくというより、気になった哲学者についての章を一冊の本のようにしてつまみ食いしてゆくのがおすすめです。その中の「ヘーゲル」の章は、日本で最も重要なヘーゲル研究者、加藤尚武によって書かれていいます。

 

加藤の文章の魅力は、ヘーゲルの欠点をも一切手加減せずに指摘する、ユーモアたっぷりの語り口にあります。例えば「ヘーゲルで完成している哲学思想はない」だとか、「ここには「論理の展開」などというものは何もない。イメージがあるだけというのが実情であろう」、あるいは「「ドイツ観念論」の中に人類の知的遺産として永遠に記憶されるべき一行の言葉があるかどうかも、おぼつかない」といった辛辣な、しかしどこか軽快なヘーゲル批判には、ニヤリとせずにはいられません。

 

もちろんこれが可能なのは、その裏にヘーゲルへの深い理解と、自らヘーゲルとともに思索し是々非々で臨むという強い意志が潜んでいるからです。読み進めるうちに、「西洋近代哲学の完成者」というヘーゲルの虚像が打ち砕かれ、より興味深い、格闘する哲学者ヘーゲルの実像へと引き込まれることでしょう。

 

③滝口清栄『ヘーゲル哲学入門』(社会評論社):ヘーゲルの生涯から思想へ

ヘーゲル哲学入門 (SQ選書11)
ヘーゲル哲学入門 (SQ選書11)
 

 2016年に公刊された本書では、ヘーゲルの思想の発展を編年体で追うことと、それぞれの著作の内容をかみ砕いて示すことの両方が実されています。滝口先生には私も個人的に大変お世話になっているのですが、柔和なお人柄を彷彿とさせるとっつきやすい語り口も本書の魅力の一つです。

 

本書の最大の特徴は、伝記的な事項についてもかなり詳しく踏み込んだ叙述がなされていることでしょう。ヘーゲルの思想の内容についてわからないところが残ったとしても、伝記として楽しんで読み進めることができます。同時に、著作の内容もかなり細かく紹介され、各著作のキーワードを知ることができます。初学者にはそれでも凝縮された文体に感じられるかも知れませんが、入門者の段階を超えて、各自の興味に応じた勉強をすすめるときにどの本に進むべきか、考えるヒントとなるでしょう。

 

④岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』(東京大学出版会):「ドイツ古典哲学」の中のヘーゲル

カントからヘーゲルへ
カントからヘーゲルへ
 

 哲学史のなかでも躓きやすいカント以後のドイツ哲学。1977年発行の本書は、その中心となる4人の思索を俯瞰する書物として、今でも最初に参照されるべき一冊です。(ちなみにこの時代の哲学は「ドイツ観念論」と呼ばれてきましたが、近年では、観念論に限らないこの時代のドイツの哲学を全体として指す呼称として「ドイツ古典哲学」が定着しつつあります。)

 

カントを主要な研究対象としていた岩崎ですが、この著作ではフィヒテシェリングヘーゲルにも、一人の哲学者として真摯に向き合い、自分なりの合理的な解釈を作り出そうとします。ヘーゲルについても、「全く価値がない」という評価と「非常に重要な哲学者」という評価の両方があるという出発点から、ヘーゲルに意義があるとしたらそれはどのような意義なのかへと、思索が展開されていきます。単なる紹介にとどまらない哲学の書として、時代に左右されない魅力を持つ一冊です。

 

⑤高山守『ヘーゲルを読む』:ヘーゲルとともに哲学しよう

ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)
ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)
 

最後の1冊は、私の恩師でもある高山守の近著で、放送大学のテキストを元に大幅な改稿を加えた一冊。

 

高山のヘーゲル論の魅力は、ヘーゲルの晦渋な叙述を自らの哲学的関心と関連付けながら、整合的な解釈を構築しようとする態度にあります。この哲学史研究のエッセンスを、コンパクトな入門書のスタイルでも犠牲にせず、可能な限り展開しているのが本書。ヘーゲルを読み、それについて自分で考え、自分なりの解釈を提示する。本書において読者は、そうしたヘーゲル研究の目指すべきあり方の好例に触れることができます。

 

3. 挫折しないためのアドバイス

 

ヘーゲルは、文体が読みにくく、内容も多岐にわたり、しかも「カント以後の哲学」、「フランス革命後の哲学」といった、哲学史・世界史的な文脈を背負った哲学者です。このような哲学者について、最初から一気に全部を理解しようとするのは得策ではありません。まずは全体像をつかむことで頭の中に「地図」を作り、そこからさらに個別の著作などに進んでいくのが理想的です。

 

また、ヘーゲル自身の叙述の難しさから、ヘーゲルに関する解説書や研究書も、非常に難しく、初学者にとっては何を言っているかわからない箇所も多々混在している、というのが実情です。そのような箇所に出会ったら、立ち止まらずに、キーワードだけを拾って次に進むことです。全体像がわかり、個々のキーワードが何を指すのかわかってくれば、自ずとわかるようになるということもあります。これは、この記事で紹介した入門書についてもきっと例外ではないでしょう。すでに専門的な知識を持っている私には気づけない躓きの石が潜んでいることも十分ありえます。その場合には、とりあえず気にせず先に進んでみることです。そして十分な知識がついたら、もう一度戻ってくればよいのです。