川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

『インタラクティブ・ティーチング』の思い出(と、宣伝)

書籍『インタラクティブ・ティーチング:アクティブ・ラーニングを促す授業づくり』が、去る2月に河合出版より発売されました。私は第3章「学習の科学」を執筆しました。
 
インタラクティブ・ティーチング―アクティブ・ラーニングを促す授業づくり

インタラクティブ・ティーチング―アクティブ・ラーニングを促す授業づくり

 

 

この書籍のもとになったのが、JMOOCs講座「インタラクティブ・ティーチング」です。この講座の内容は現在は「東大FD」のwebサイト上で公開され、書籍と合わせて視聴することができるようになっています。
 
 
さて、書籍の宣伝もかねて、私自身も携わっていたこちらのプロジェクトについて、少し思い出話をしてみたいと思います。
 
インタラクティブ・ティーチング」はプラットフォーム"gacco"を利用して運営・公開されていた、インターネット上で受講する講義です。MOOCsについて詳しくは他のサイトを参照していただければと思いますが、ざっくり言うと映像コンテンツを視聴し、関連する小テストやレポート課題に取り組んで合格すれば履修証が発行されるというものです。インタラクティブ・ティーチングは東京大学・大学総合教育研究センター(大総センター)と日本教育研究イノベーションセンター(JCERI)の共同開発によるプロジェクトで、東大からは中原淳先生・栗田佳代子先生が開発の中心メンバーとして参加されました。
 
さて、私は2014年の4月から11月にかけて、大学総合教育研究センターの教育課程・方法開発部門に特任研究員として勤務しており、プロジェクトの立ち上げと、映像コンテンツの作成に携わっていました。と言っても、私のメインの仕事は同部門も当時のもう一つの主要プロジェクト、東京大学フューチャー・ファカルティ・プログラム(東大FFP)の運営・広報でしたので、インタラクティブ・ティーチングについては教材の一部を担当する等、後方支援に近い形で携わりました。たとえば、教材中にあまり出来の良くないレポート課題を採点するワークが含まれていますが、このレポートの例を作成したことを覚えています。
 
当時、プロジェクト全体の進行を統括・管理されていたのは当時同センターにいらした小原優貴さん(現・東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属教養教育高度化機構 特任准教授)、広報の中心となり、書籍にも収録されているストーリー・セッションの開発にも関わられていたのが、現在も同センターで特任研究員をされている山辺恵理子さんです。
 
このプロジェクトで印象に残っているのは、なんといってもそのスピード感です。映像をご覧になった方は、実際の大学院生を前に講義をする栗田先生の姿を覚えていらっしゃると思いますが、この、生徒役の大学院生を前に授業をするスタイルも初めから決まっていたわけではなく、私が4月に着任してからアイディアが出され、実現されたものでした。どんどん新しいアイディアが生み出され、よいものは着実に実行に移されていく、その様子に感銘を受けました。(もちろん、実際に渦中にいた身ですので、のんきに感銘を受けてばかりはいられませんでしたが。)このスピード感ある職場で仕事の進め方を学べたことは、徳島大学時代も、現在の宮崎公立大学でも、私にとって大きな財産となっています。
 
インタラクティブ・ティーチングの映像を含む教材と書籍は、東大FFPで行っていた将来教員となる大学院生向けの授業の作り方についての授業、また、新任教員向けの授業の作り方についての講座の内容を概ね反映して作られています。ただ、提示順序については、大学教員以外の教育に興味を持つ方々にもわかりやすいよう、シラバスの書き方など大学特有の事項は後半に回され、アクティブ・ラーニングなどより広い「学びの場」で活用できる手法や知識の紹介を前半に置く工夫がなされています。大学以外で教えている皆さんは、大学との違いを考えてみるのもおもしろいかもしれません。
 
大学での授業を担当することになったらまず読むべき本としては、これまでも『大学教員準備講座』(夏目達也ほか著、名古屋大学出版会)や、『大学教員のための授業方法とデザイン』(佐藤浩章著、玉川大学出版部)がありました。また、既にある程度の教授法を身に着けている教員が必要に応じて読むべき本としては、『協同学習の技法』(デイビスほか著、ナカニシヤ出版)や、『大学教員のためのルーブリック評価入門』(スティーブンスほか著、玉川大学出版部)、『大学における「学びの場」づくり』(アンブローズほか著、玉川大学出版部)があります。
 
自画自賛するようではありますが、『インタラクティブ・ティーチング』は、これら両方の長所を備えた本だと言えます。授業づくりに関する知識はまだ全く無いという大学院生の方にも、また、すでに授業にある程度の自身を持っている先生方にも、基本を確認しながら、自ら授業づくりについてより高いレベルで学びつづけるための橋渡しができる本になっているはずです。ぜひご笑覧いただければと思います。

徳島大学を(5ヶ月前に)退職しました

既に5ヶ月が経過してしまいましたが、昨年度いっぱいで、約1年半にわたってお世話になった徳島大学を退職し、4月から宮崎公立大学助教として赴任いたしました。
 
わざわざ「退職しました」というタイトルにしたのは、よくIT系の方が書いている「退職エントリ」のパロディという意味合いもありますが、宮崎公立大学に内定を頂いてから職場に退職の報告をするまでのことを、ある程度記録に残しておきたいと考えたためです。というのも、webでも、また他の大学や学部に関する噂でも、退職時の対応を誤ると嫌な思いをするという話をたくさん目に・耳にしており、実際に退職報告のさいに必要以上に胃を痛めることになったからです。
 
はじめに書いておくと、実際には、元の職場である徳島大学・総合教育センターの先生方、また職員の皆さまには、大変暖かいご対応を頂きました。おそらくそのような「円満退職」の事例も世の中にはたくさんあるのだと思いますが、残念ながら、それをわざわざ書き残される方は少ないようです。そのために職場を移る際に私のように過剰に不安になってしまう方も多いのではないかと思い、今回ここに経緯を公開したいと考えました。
 
基本的なこととして、研究者の転職活動は、職場には伝えずに行うのが普通です。これは他の職種の転職活動と同じではないかと思います。日常業務の傍ら、公募をチェックし、書類を書いて応募、また、有給等を使って面接等に出向く、ということになります。ただし、特にエージェント等は介さない孤独な作業になるという違いはあります。なお、私の場合、徳島大学での職は任期3年更新なしという契約でしたので、学内外いずれかでなんとか次の職を見つける必要があったということも書き添えておきます。近年、このような任期付きのポストが増えており、転職活動をせざるを得ない若手の大学教員の数は非常に多くなってきています。
 
さて、内定を頂いてからのことですが、既に書いたとおり、webには不安を煽るような情報があふれていました。曰く、職場に伝えると嫌がらせを受けるのでぎりぎりまで伝えないほうが良い、とか、最悪の場合内定取り消しのために働きかけられることがある、とか。もちろん、これらの事例は、あまりに極端で、自分の職場では考えられないようにも思われました。また、ギリギリに伝えたのでは、自分は良くても、職場に大きな迷惑がかかってしまい、いらぬ恨みを買ってしまうことにもなります。しかし、一度そういった悪い情報を目にしてしまうと、根が心配性な私はどうしても不安になってしまいます。いろいろと悩んだ結果、恐ろしい体験談のことは一旦忘れるとして、一般的な職場と同様の手続きを踏むことにしました。とにかく誰にも話さずに転職活動をしていますから、情報源はネットにしかありません。私の場合、リクナビNEXTの以下の記事(の旧バージョン)を参考にしました。
 
 
大学教員は通常の会社組織とは微妙に異なる組織になっていますが、まず、直属の上司にあたる教員に伝え、了承を得た上で、そこから段階を追って所属長まで事情をお話しし、そのあとで同僚と事務職員の皆さんにお伝えするようにました。
 
結果的には、初めに書いたとおり、みなさん任期付きである私の事情も汲んでくださり、大変あたたかくご対応くださいました。また、私の将来を応援してくださいました。徳島大学総合教育センターの皆さんには、そのことを今でも深く感謝しています。
 
以上が、私の転職のさいの経緯です。念のため注意していただきたいのは、あくまでも、一つの事例としてお読みいただきたいということです。私の方法が最良だったのかどうかはわかりません。特に伝える順番については私自身一番悩みました。同僚の先生方に先に伝えるという考え方もあると思います。しかし、いずれにせよ、身にしみて感じたのは、こういった情報があまりにも手に入りにくいということです。このブログが、少しでも、後に続く方々の参考になればと思っています。また、「ぎりぎりまで職場には伝えない方がよい」という噂を鵜呑みにし過ぎないよう、もちろん場合によってはそれがよいということもあるのでしょうが、いろいろな場合があるのだということを知って頂けると大変うれしいです。
 
最後になりましたが、現在は、宮崎公立大学人文学部で、哲学を担当し、学生の指導にあたっています。授業にあたっては、ジグソー法など、FDセンターで身についたアクティブ・ラーニングの手法を活用し、ある程度の手応えも感じています。また、研究面でも、昨年度は論文を書けなかったのですが、本年度はすでに商業誌(『情況』6・7月号)に寄稿するなど、少しずつ成果の発信にも着手しています。
 
このブログについては、既にかなり放置気味ではありますが、本業に支障のない範囲で、気が向いた時に更新していけたらと思っています。上記の教育や研究のことについても、そのうちご報告できればと思います。

哲学史研究とイノベーション

来週、10月22日(木)から、徳島大学教養教育院(仮)設置準備室・講師の北岡和義先生が中心となった、「徳島大学イノベーションチャレンジ」(TIC)という教育プログラムがスタートします(TICのFacebookページはこちら。)。これに先立ち、15日(木)は、東京大学i.schoolより、エグゼクティブ・ディレクターの堀井秀之先生をお招きした、「第1回イノベーション教育講演会」が行われました。私は、TICの立ち上げにほんの微力ながら協力している縁もあり、スタッフ兼受講生のような形で、お話をお聞きすることができました。

 
お話の中で、「イノベーション」を生み出すために特に重要なのは、「アナロジー」の活用である、ということが強調されていました。堀井先生のバックグラウンドが社会基盤工学であることからもわかるように、「イノベーション」は、工学系の学部・研究会、また産業界を中心に注目を集めてきた言葉です。しかし、考えてみれば、思考・発想のプロセスに人文系も工学系も関係ありません。その証拠に、実はアナロジーを用いた思考・発想法は、哲学史研究、特に、1人の哲学者にフォーカスした研究において多用されています。
 
1人の哲学者にフォーカスした研究は、日本では、哲学の最も基礎的な研究方法として定着しています。そこで培った研究方法を基礎として、更に射程の広い哲学史研究や、あるいは独自の哲学体系の構築へと進む、というわけです。この種の研究は典型的に「◯◯における✕✕について」というタイトルの論文にまとめられることから、「おける論文」などと嘲りのニュアンスを含んで言われることもありますが、哲学研究がこれを軸に発展してきたことは疑いようもありません。ちなみに、私自身の研究も主にヘーゲルにフォーカスしており、この「おける論文」の段階にあります。
 
さて、このように最も一般的な哲学の論文のスタイルである「おける論文」ですが、そこで何が起こっているのかは、実は必ずしもはっきりしません。もちろんそこでは、先行研究の批判的検討と、原典の読解とを踏まえて、ある独創的な解釈が提示される、あるいは特定の解釈方針に新たな根拠付けが与えられる、ということがなされています。しかし、そこにはもう一つ、暗黙のルールがあります。それは、「対象としている哲学者の思想の現代的意義を示す」というものです。これが必要なのは、「その哲学者が研究するに値する」ということを示すためです。とくにヘーゲルのようにわけのわからないことをよく口走る晦渋な哲学者を研究する際には、これは最も難しく、また同時に最も面白い作業でもあります。
 
それでは、現代的意義を示すためには、どのような手法が取られているのか。それが、アナロジーの活用、あるいはアブダクション的な推論なのです。「おける論文」には、かならず原典のテクストがあります。しかし、現代的意義を示すためには、原典を読み込むだけでは不十分です。現代の問題状況・文脈を持ってきて、突き合わせる必要があります。より直観的に言えば、「ヘーゲルが現代に生きて、この論争を知っていたら何と答えるだろう?」と考えることが必要です。ではこのとき、どのような文脈を突き合わせるべきか。ここに現れるのが、研究者の「ウデ」であり、その研究の独創性です。哲学史研究者は(少なくとも私は)、日々の読書=研究のなかで、現代の論文を読んでは「お、ヘーゲルがあそこで言ってたことに関係あるかも?」と考え、あるいは原典を読んでは、「現代のあの問題とつながるんじゃないか?」と考えているのです。
 
そしてここで重要な役割を果たしているのが、アナロジーです。現代の論争状況と、遠く数百年の時を隔てたテクストとの間に類似点を見出すこと。これによって、過去のテクストとの類似性を手がかりに現代に新たな視点をもたらすことが、あるいは逆に、現代の文脈との類似性を手がかりに過去のテクストに新たな生命を吹き込むことが、可能になります。あまり表立って語られることはありませんが、これこそが哲学史研究の醍醐味である、とすら言えるのではないかと思います。
 
ただし、このように研究手法の中心にアナロジーの活用が含まれるということは、「おける論文」の限界をも同時に示しています。第一に、このような研究は、アナクロニズム(時代錯誤)に陥る危険を秘めています。背景を見誤り、字面だけは似ていても、実際には全くその哲学者とは関係のない主張を帰属してしまう、ということが生じ得ます。ここで詳しく論じることはしませんが、一般にアナロジーを活用するということは、類似性に関する洞察を根拠に、データに基づかない飛躍を含んだ推論をするということです。ここに誤りが含まれていれば、イノベーションの文脈では失敗となり、哲学史研究ではアナクロニズムに陥る、ということになります。そして第二に、当然ながらこの種の研究は、過去のテクストに似ている問題・解答しか扱うことができません。過去のテクストには現れない重要な問題を扱いたい、あるいは、過去のテクストから引き出せるのとは異なる答えを提示したい、と考える場合には、別の研究スタイルを選択する必要が生じるということです。
 
どうしても過去の哲学者に縛られる哲学史研究において、独創的な価値はどこから生み出されるのか、また、その限界はどこにあるのか。これらの問いには、博士論文を執筆するにあたって日々悩まされています。「イノベーション教育講演会」は、この悩みに意外な方向から光を当てるきっかけとなりました。
 
ところで、このことを逆側から考えてみると、一般に人文学とは縁遠いと思われがちなイノベーションという領域に対して、人文学からのアプローチが可能だということも言えるのではないかと思います。教育学でもそうですが、例えば「創造性」のような素朴な概念をより詳しく分類してその内実を明らかにする、という手法は、アリストテレスが好んで用いていた、哲学における伝統的な手法です。また、もっと比喩的に考えれば、「イノベーション」は「遊び」から生まれるものであり、その「遊び」の幅を広げるのが人文学の機能のひとつです。人文学にも社会への貢献が求められるようになった現代、「イノベーション」はそれを可能にする切り口の一つなのではないかと思います。

ヘーゲル研究文献レビュー:Paul Redding, "Hegel and Peircean Abduction"

基本情報

著者:Paul Redding

タイトル:Hegel and Peircean Abduction

発表年:2003

媒体:European Journal of Philosophy 11:3, pp.295-313

 

要約

S. パースの「アブダクション」から説き起こし、カントからヘーゲルへと展開された判断と推論についての議論の中に、その源泉を見出す。その後、アリストテレスの伝統的論理学の枠組みを参照しつつカント、フィヒテヘーゲル、そしてパースの議論についてより詳細な描像を提示する。さらに結論部では、以上の概念史な整理を元に、「知覚判断」の位置づけについて、ブランダムの推論主義やセラーズの「所与の神話」批判をも射程に収めつつ論じる。

 

コメント

著者は、アリストテレス、パース、カント、フィヒテヘーゲルというどの一人をとっても一冊の本がかけるような大哲学者たちの議論を手際よく比較し、現代的な議論との結節点までをも見出す。まさに「縦横無尽」と言うべきエレガントな哲学史研究である。

 

気になる点としては、こうしたスタイルの論文では仕方のないことだが、ヘーゲルの文言を詳しく検討した箇所がないということである。しかし、これはこの論文の欠陥ではないだろう。私自身、博士論文の執筆を進める中で、「よい哲学史研究とはどのような研究か」という根源的な問いに再び直面しつつある。哲学史研究では、研究者ごとに少しずつ異なる解像度で過去の哲学者の議論に迫ることが、新たな対話の可能性を開く。これが哲学史研究の醍醐味だと言えるかもしれない。

 

 

ヘーゲル 論理の学 第三巻 概念論

ヘーゲル 論理の学 第三巻 概念論

 

 

 

Analytic Philosophy and the Return of Hegelian Thought (Modern European Philosophy)

Analytic Philosophy and the Return of Hegelian Thought (Modern European Philosophy)

 

 

FD関連文献レビュー:Joel Michael (2007), Faculty Perceptions About Bariiers to Active Learning

基本情報

  • 著者:Joel Michael
  • 発表年:2007
  • タイトル:Faculty Perceptions About Bariiers to Active Learning
  • 媒体:College Teaching, 55:2, 42-47, DOI: 10.3200/CTCH.55.2.42-47

 

要約

自身のワークショップで収集した質問票のデータをもとに、アクティブ・ラーニングを実施するうえで大学教員にとって何が「障壁」と考えられているのかを明快にまとめた論文。

 

著者は、アクティブ・ラーニングを実施するうえでの障壁を、以下の三つのカテゴリーに分けて整理している。

 

  • 学生の特徴や貢献
  • 教員に直接影響するような、教員の特徴や問題
  • 学生の学びに影響するような教育学的問題

 

1は、「学生がアクティブ・ラーニングのやり方を知らない」等、学生に原因を求めるもの、2は「アクティブ・ラーニングの授業では教員によるコントロールがなされにくい」等、教員に原因を求めるもの、3は言葉の上では少々わかりにくいが、「クラスサイズがアクティブ・ラーニングに向かない」等、設備や制度に原因を求めるものである。

 

著者によれば、教員が感じる障壁には正しいものもあれば誤解もある。正しいものについては、それを取り除くための方法を、また誤解についてはそれを解くためのFD研修が有効である。ただし、研修の効果は限定的である。著者は、「入念な計画」、「高すぎない目標」、「授業の変化を継続させるためのサポートネットワークの構築」が重要だということを強調する。

 

コメント

短いながら、FD担当者にとって示唆に富んだ内容となっている。しかし、いくつか留意すべき点もある。

 

留意すべき点として、まず、「障壁」に関するデータは筆者がワークショップで29名の教員から収集したデータであり、バイアスがかかっている可能性は否定できない。また、筆者が提示する指針はこれまでのFD研修への反省から導き出された提案として理解されるべきものであり、手法としての有効性がデータに基づいて十分確証されたものではない。

 

これらの問題はあるものの、FD研修は常に特殊な教員の状況に合わせてカスタマイズしなければならないという性格を持つため、完全に客観的なデータではなくても、留保付きの参考データとしてこれらのデータを実践に活かすことは重要である。また筆者の提言についても、日本の、特に四国のような「FD先進地域」におけるFD研修は、浸透・定着しつつある一方で、頭打ち・マンネリ化の兆しもある。こうした状況に照らして、特に「授業の変化を継続させるためのサポートネットワークの構築」といった提案は、我々にとっても重点課題となりうるように思われる。

アクティブ・ラーニングの目的とは

私が所属する徳島大学は、大学教育再生加速プログラムのテーマI「アクティブ・ラーニング」の採択を受け、アクティブ・ラーニングの普及に取り組んでいます。こうした背景もあり、職務を行う中で、先生方にアクティブ・ラーニングをおすすめする、という機会が多々あります。


ところが、「アクティブ・ラーニング」という概念は、非常に「ゆるい」概念で、その定義も様々です。このため、実際に授業をされる先生方の中には、そのような、定義のはっきりしないものを推薦するなど無責任ではないか、と考えられる向きもあるのではないか、と危惧しています。(というか、私自身が学部の教員だったら、きっとそのような感想を抱くであろうと思います。)

その点、私がFDに関する教育をうけた東京大学フューチャー・ファカルティ・プログラムは、この概念の曖昧さに敏感で、かなり慎重に留保をつけながら、「アクティブ・ラーニング」の長所について語られていました。「アクティブ・ラーニング」に特化した回を担当された中原淳先生も、また、その他の回における栗田佳代子先生のお話の中でも、この概念がいわゆるバズワードとして「ゆるく」用いられているということへの注意が何度も喚起されていたことを覚えています。それでもなお、いわばこのフレーズの大流行を「利用」することで、大学での授業をよりよいものにしてゆくことは可能である、というのが、私がFFPで受け取ったメッセージであり、現在仕事をする際に考えていることでもあります。

アクティブ・ラーニングについては既に様々なことが語られていますが、このブログ記事でそれらのいちいちを紹介することはしません。その代わりに、ここでは、常日頃強調したいと考えているアクティブ・ラーニングの分類について、少し書いてみたいと思います。それは、「目的」による分類です。

アクティブ・ラーニングを活用することで、学生に対する「知識伝達」をする授業から脱して、いわゆる「汎用的技能」(コミュニケーション力や、自ら問いを見つけそれを解決するための力など)を身につけさせることができる、と言われることがあります。このような言説には、高校までの「受動的な学び」を脱して、大学では「能動的な学び=アクティブ・ラーニング」を実施すべきだ、といった主張が伴うこともあります。しかし私には、このような言説は、多少厳密さを欠いているように思えます。(ただし私は、アクティブ・ラーニングのメリットを、厳密さを多少犠牲にしてでも簡潔に示す必要がある場合には、このような言い方もある程度は許容されてよい、とも考えています。)

アクティブ・ラーニングの中には、たしかに、問題を発見・解決する力を身につけるために推奨されるべきものもあります。しかし、知識の伝達と定着のために役立つがゆえに推奨されるべきアクティブ・ラーニングもあるのではないでしょうか。また、このタイプのアクティブ・ラーニングは、大学独特のものであるよりむしろ、学生が高校までの授業で慣れ親しんでいるものなのではないでしょうか。

例を挙げて考えてみましょう。いわゆるPBL(ProjectであれProblemであれ)や、ラーニング・ポートフォリオを用いた授業など、大掛かりなアクティブ・ラーニングにおいては、学生には自ら問題を発見し、また自らの活動を振り返って自律的な学びを行うことが要求されます。このようなアクティブ・ラーニングにおいてはたしかに、問題を解決する力や、自らを律する力を身につけされることが可能でしょう。しかし、一般的な数人でのグループワークや、Think-Pair-Shareのような小型のワークは、どちらかというと、教員が伝えたい知識を定着させるために行われるのではないでしょうか。このようなワークでは、教員は、学生に「一人で回答するには難しいが、しかし答えのある問い」を投げかけ、学生もその決まった答えを考える、といった場面が少なくないでしょう。高校までの授業でも、例えば数学の問題をグループで解かせるような、あるいは、「調べ学習」のような仕方で、身に付けるべき知識に、生徒自らがたどり着けるよう促す、という仕方での「アクティブ・ラーニング」は多用されています。このような目的での「アクティブ・ラーニング」の典型例は、プラトン『メノン』におけるソクラテスの「授業」に求めることができるでしょう。


ここまでで、アクティブ・ラーニングには、問題解決力のような力を身につけさせるためのものと、より確実に知識を伝達し定着させるためのものの二つがある、ということを示せたことにしましょう。ここから得られる、教育実践の場面に関わる教訓は何でしょうか。それは、アクティブ・ラーニングを導入する際には、ただ導入しさえすればよいのではなく(「文部科学省対策」としてだけ考えればそれが許容されてしまうのですが)、それぞれのコースやコマの目的・目標を教員が自ら明確に把握した上で、そのためにどのような方法が有効化を考えて導入する必要がある、ということです。例えば専門基礎に多くある知識を伝達するための授業であれば、小型のワークを多数組み入れるという仕方でアクティブ・ラーニングを導入することが、学生の学びを促すことになります。これに対して、問題発見・解決能力のようなものを身につけさせたいのであれば、ときには大掛かりなワークにチャレンジすることも必要になるでしょう。目的に対応しない手段を選ぶことは、教員も学生もいたずらに疲弊するだけ、という結果につながりかねません。

まとめます。

  • アクティブ・ラーニングには、知識伝達・定着に有効なものと、問題解決能力のような力を身につけさせるために有効なものの二つのタイプがある。
  • アクティブ・ラーニングを導入する際には、授業の目的・目標に合った方法を適切に選択することが重要である。


これらのことを教員一人ひとりが明確に意識することで、いっときの流行や「文部科学省対応」で終わらない、真に学生に資するアクティブ・ラーニングが可能になる、と考えています。

 

 

 

 

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4月の活動記録

文章を書くスイッチが入ったので、続いて4月についても更新します。4月は3月と逆に、研究に軸足をおいた月になりました。業務の方は、就職して初めての新年度なので、なんとなくふるまい方を探りながらの月になりました。

研究に軸足を置いた、と書きましたが、5月の日本哲学会に向けた準備がこの月のメインの仕事でした。今週末に迫った日本哲学会では、ジョン・マクダウェルの「第二の自然」概念に関する口頭発表をする予定です。3月に続いて博論に関係ないこと喋ってる!ということにはなるのですが、その先の研究のことも考えながらバランスを取っている、つもりです。この発表の準備は終わったので、ここからは博論にシフトしていきます。

マクダウェルの発表は、実は2年前にイギリス哲学・哲学史研究会というところでお話した内容を下敷きに、結論部を大幅に書き換えたものです。当時から、マクダウェルの議論の整理のところはうまくいったものの、その先の批判的な検討のところはあまりうまくいっていないなと考えていました。その辺りを改めて考えなおしました。

私はヘーゲルを研究していますが、他方で物理主義にもシンパシーを感じています。まだ整理できていない検討課題ですが、この二つの立場の共通点はどちらも一元論を志向しているところにあるように思います。対極とすら思われそうな二つの立場なのですが、自分なりにその間をぬっていけたらいいなと思っています。もちろんその前に博士論文をまとめなければなりませんが…!

上記の発表のほか、大阪大学で開かれた超越論哲学に関する国際会議にも参加しました。およそ1年半ぶりくらいで英語を喋ったら全然喋れなくなっていて悲しかったのですが、内容はとても興味深い発表ばかりでした。ピピンの次の世代のヘーゲル研究を担っているRobert Stern教授と直接お話しできたのもよい機会でした。哲学研究については興味の近い方とお話できる機会がかなり減ってしまっているので、でいるだけこういったチャンスを活かしていかなければと感じています。

こう書くと業務をサボって研究ばかりしていたようですが、業務としては本年度の授業コンサルテーションをスタートさせたり、ナンバリングの実務が始動したりと、新年度に伴う仕事に着手しています。また、医学部保健学科でのワークショップでは、直接学生を指導する、普段あまりない機会を得ることが出来ました。今後、もう少し学生との接点を増やしてゆけるとよいのですが。

 

 

心と世界

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John McDowell (Key Contemporary Thinkers)

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Classroom Observation: A guide to the effective observation of teaching and learning

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