川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

書評:『ワードマップ現代現象学』(新曜社、2017年)

現象学は、私たちの経験の探求です」と導入される本書は、フッサールからハイデガーを経てメルロ-ポンティやレヴィナスに至る、という旧来の「現象学入門」のスタイルからは大きく逸脱している。目次を眺めればわかるとおり、志向性、存在、価値、芸術等々のトピックベースで、現象学的なアプローチによる現代的な議論が展開される。まさに「現代現象学」の名にふさわしい入門書である。ちなみに、後書きにもあるとおり、私も一部の章については草稿段階で読ませていただいたことがあるが、全体に目を通したのは書籍になってからである。

 
さて、このような本書の性格上、個別のトピックについての考察は、必ずしも現象学に興味がなかったとしても、そのトピックに興味がある者なら一読して損はないものとなっている。現象学的なアプローチが中核に据えられ、擁護されているが、それ以外の立場についても目配りの効いた検討がなされており、各自の問題意識に引きつけながら読むことができるだろう。「大陸哲学と分析哲学の架橋」などと大上段に構えるのではなく、トピックベースで両方の議論を検討してゆくことで結果的に両者の壁が取り払われているのも読んでいて小気味よい。
 
その一方で、現象学者ではない、ヘーゲル研究から出発した私にとって最後まで乗れなかった点もある。それは、そもそもこれらのトピックすべてを、一貫して現象学的なアプローチで説明するという、著者たちのモチベーションである。各々のトピックについて、それについては現象学的なアプローチが役立つ、と論じることには意味があるだろう。しかしそれを述べることは、すべてのトピックについて、一貫して現象学的なアプローチを取るべきであるということを正当化しないように思われる。トピックによっては「経験」や「現象」が重要なものと、そうでないものがある、ということではなぜいけないのか。(例えばヘーゲルなら、経験や現象から始めるのか、それを超越した形而上学から始めるのかという問いの立て方そのものが不適切であると言うだろう。)それとも、トピックを貫いて現象学的なアプローチをとる「べき」だという主張はなされておらず、さしあたり現象学的なアプローチで考えるとどうなるかをカタログ的に提示した、ということなのだろうか。現象学の外にいる者として、こうした疑念は残る。
 
とはいえ、本書は入門書である。そのような問いは、読者である私たちが、他の書物にも手を伸ばしながら、自ら考え、探求していくべきものであろう。むしろ、現象学的アプローチにこだわった本書のおかげで、そのような問いにたどり着くことができた、と言うべきである。 

 

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

現代現象学―経験から始める哲学入門 (ワードマップ)

 

 

ヘーゲルに挫折しないための5冊

西洋哲学史のなかでもトップクラスのとっつきにくさで知られるヘーゲル。この記事では、ヘーゲル哲学を学ぶための入り口を提案します。この夏、新たな挑戦としてヘーゲルに入門してみてはいかがでしょうか。
 

1.ヘーゲル哲学入門の難しさ

西洋哲学に興味のある者でその名を知らぬ者はいない、と言ってもよい大哲学者ヘーゲル。しかし、彼の思想を学ぶことには独特の困難が伴います。

 

1.1 文章が難解すぎる

ヘーゲルの文章は非常に難解で、西洋哲学の中でもトップレベル。ヘーゲル自身も書簡でうまく書けないと嘆いており、専門の論文でも、例えば英語ならdense(濃縮された)やnotrious(悪名高い)と言った表現に何度も出会うほど。いきなりヘーゲルの著作を開いて、数行で挫折してしまった、という方も少なくないでしょう。

 

1.2 著書が手に入りにくい

哲学の古典と言えばまず思い浮かべる人も多いであろう岩波文庫。その岩波文庫で現在絶版になっていないヘーゲルの著作は、『歴史哲学講義』のみ。ヘーゲルの歴史哲学は確かに有名なのですが、西洋中心主義的な進歩史観が大々的に述べられており、ステレオタイプ的なヘーゲルのイメージを確認することはできても、ヘーゲル哲学本来の面白さに触れることは難しいのです。

 

ヘーゲル哲学をきちんと学ぼうと思ったら、何と言っても主著の『精神現象学』と『大論理学』を読まなければなりません。しかし、『精神現象学』は最も手に取りやすい平凡社ライブラリー版で、上下合わせて3500円ほど。『大論理学』に至っては、一冊5000円を超えるハードカバー三巻本でしか手に入らない状況です。ヘーゲルの著作は、知名度の割には、初学者がアクセスしづらい状況にあります。

 

1.3 研究書が多すぎる

ヘーゲルは日本で盛んに研究されてきた研究者で、多くの研究が蓄積されています。それ自体はよいことなのですが、新たに学び始めようとする者にとっては、これがかえってハードルになりかねません。なにしろアマゾンで検索しても、図書館のドイツ・オーストリア哲学の棚の前に言ってみても、新旧の研究書がずらりと並んでいる状態。しかも適当に手に取ってみると、難解なヘーゲル用語が並んでいて予備知識がなければ読めないような本もたくさん。何から手をつけて良いのか、学部生時代の私がそうだったように、困惑してしまうでしょう。

 

2.入門のための5冊

というわけで、この記事では、「今、ヘーゲルに入門したい人」が何から読むべきか、あえて5冊に限定して紹介してみたいと思います。5冊としたのは、一人の人間がモチベーションを保って読み通せる現実的な冊数だからです。その際、ヘーゲルの全体像がつかめることを条件とします。ただし、これらの条件のせいで選に漏れた著作についても、必要に応じて紹介していきます。なお、著者については敬称略とします。

 

長谷川宏『新しいヘーゲル』(講談社現代新書):新書で全体像をつかもう

新しいヘーゲル (講談社現代新書)
新しいヘーゲル (講談社現代新書)
 

 

まずは新書から。『新しいヘーゲル』は、ヘーゲルの翻訳でも知られる在野研究者の大御所、長谷川宏の著作。ヘーゲルの著作の長谷川訳については、かなり大胆な意訳が施されており、専門家の間では否定的な意見もよく聞かれます。しかし、長谷川の平易な語り口が、入門者にとって有益であることは間違いありません。私自身、大学2年生のころ、長谷川『ヘーゲル精神現象学』入門』を読んで、初めてヘーゲルが何を言っているかわかった、という経験をしたこともあります(この時期では「ヘーゲルの全体像がつかめる」という条件から外れるため選外)。

 

『新しいヘーゲル』は、新書サイズで、多岐にわたるヘーゲル哲学の全体像を、平易に示す、という挑戦的とも言える一冊。その分全体に薄味の叙述にはなっていますが、この一冊に目を通しておくことで、これからいろいろと勉強するうえで頭の中に地図を作っておけるはずです。

 

なお、同じく新書サイズでのヘーゲル入門には、権左武志『ヘーゲルとその時代』もあります。こちらはタイトル通り、歴史的な事項との関連やヘーゲルの国家観・歴史観について、ヘーゲルの生涯をたどりながら追うことができる一冊。しかし、歴史的事項との関連や実践哲学にウェイトを置いたアプローチであり、理論哲学については割愛されているため、今回は選外としました。逆にそういった点に興味がある方にはこちらもおすすめ。

 

加藤尚武ヘーゲル」、『哲学の歴史 7:理性の劇場』(中央公論新社):ヘーゲルの実像に迫る

 

中央公論新社から10年程前に公刊された『哲学の歴史』シリーズ。同シリーズを読むときには、最初から順番に読んでいくというより、気になった哲学者についての章を一冊の本のようにしてつまみ食いしてゆくのがおすすめです。その中の「ヘーゲル」の章は、日本で最も重要なヘーゲル研究者、加藤尚武によって書かれていいます。

 

加藤の文章の魅力は、ヘーゲルの欠点をも一切手加減せずに指摘する、ユーモアたっぷりの語り口にあります。例えば「ヘーゲルで完成している哲学思想はない」だとか、「ここには「論理の展開」などというものは何もない。イメージがあるだけというのが実情であろう」、あるいは「「ドイツ観念論」の中に人類の知的遺産として永遠に記憶されるべき一行の言葉があるかどうかも、おぼつかない」といった辛辣な、しかしどこか軽快なヘーゲル批判には、ニヤリとせずにはいられません。

 

もちろんこれが可能なのは、その裏にヘーゲルへの深い理解と、自らヘーゲルとともに思索し是々非々で臨むという強い意志が潜んでいるからです。読み進めるうちに、「西洋近代哲学の完成者」というヘーゲルの虚像が打ち砕かれ、より興味深い、格闘する哲学者ヘーゲルの実像へと引き込まれることでしょう。

 

③滝口清栄『ヘーゲル哲学入門』(社会評論社):ヘーゲルの生涯から思想へ

ヘーゲル哲学入門 (SQ選書11)
ヘーゲル哲学入門 (SQ選書11)
 

 2016年に公刊された本書では、ヘーゲルの思想の発展を編年体で追うことと、それぞれの著作の内容をかみ砕いて示すことの両方が実されています。滝口先生には私も個人的に大変お世話になっているのですが、柔和なお人柄を彷彿とさせるとっつきやすい語り口も本書の魅力の一つです。

 

本書の最大の特徴は、伝記的な事項についてもかなり詳しく踏み込んだ叙述がなされていることでしょう。ヘーゲルの思想の内容についてわからないところが残ったとしても、伝記として楽しんで読み進めることができます。同時に、著作の内容もかなり細かく紹介され、各著作のキーワードを知ることができます。初学者にはそれでも凝縮された文体に感じられるかも知れませんが、入門者の段階を超えて、各自の興味に応じた勉強をすすめるときにどの本に進むべきか、考えるヒントとなるでしょう。

 

④岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』(東京大学出版会):「ドイツ古典哲学」の中のヘーゲル

カントからヘーゲルへ
カントからヘーゲルへ
 

 哲学史のなかでも躓きやすいカント以後のドイツ哲学。1977年発行の本書は、その中心となる4人の思索を俯瞰する書物として、今でも最初に参照されるべき一冊です。(ちなみにこの時代の哲学は「ドイツ観念論」と呼ばれてきましたが、近年では、観念論に限らないこの時代のドイツの哲学を全体として指す呼称として「ドイツ古典哲学」が定着しつつあります。)

 

カントを主要な研究対象としていた岩崎ですが、この著作ではフィヒテシェリングヘーゲルにも、一人の哲学者として真摯に向き合い、自分なりの合理的な解釈を作り出そうとします。ヘーゲルについても、「全く価値がない」という評価と「非常に重要な哲学者」という評価の両方があるという出発点から、ヘーゲルに意義があるとしたらそれはどのような意義なのかへと、思索が展開されていきます。単なる紹介にとどまらない哲学の書として、時代に左右されない魅力を持つ一冊です。

 

⑤高山守『ヘーゲルを読む』:ヘーゲルとともに哲学しよう

ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)
ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)
 

最後の1冊は、私の恩師でもある高山守の近著で、放送大学のテキストを元に大幅な改稿を加えた一冊。

 

高山のヘーゲル論の魅力は、ヘーゲルの晦渋な叙述を自らの哲学的関心と関連付けながら、整合的な解釈を構築しようとする態度にあります。この哲学史研究のエッセンスを、コンパクトな入門書のスタイルでも犠牲にせず、可能な限り展開しているのが本書。ヘーゲルを読み、それについて自分で考え、自分なりの解釈を提示する。本書において読者は、そうしたヘーゲル研究の目指すべきあり方の好例に触れることができます。

 

3. 挫折しないためのアドバイス

 

ヘーゲルは、文体が読みにくく、内容も多岐にわたり、しかも「カント以後の哲学」、「フランス革命後の哲学」といった、哲学史・世界史的な文脈を背負った哲学者です。このような哲学者について、最初から一気に全部を理解しようとするのは得策ではありません。まずは全体像をつかむことで頭の中に「地図」を作り、そこからさらに個別の著作などに進んでいくのが理想的です。

 

また、ヘーゲル自身の叙述の難しさから、ヘーゲルに関する解説書や研究書も、非常に難しく、初学者にとっては何を言っているかわからない箇所も多々混在している、というのが実情です。そのような箇所に出会ったら、立ち止まらずに、キーワードだけを拾って次に進むことです。全体像がわかり、個々のキーワードが何を指すのかわかってくれば、自ずとわかるようになるということもあります。これは、この記事で紹介した入門書についてもきっと例外ではないでしょう。すでに専門的な知識を持っている私には気づけない躓きの石が潜んでいることも十分ありえます。その場合には、とりあえず気にせず先に進んでみることです。そして十分な知識がついたら、もう一度戻ってくればよいのです。

反転授業で学生に初回から予習してもらう工夫

講義内容をビデオ教材で予習させ、授業時間中には演習を行う「反転授業」。この授業形式の問題点として、学生が初めのうちは予習をしてこない、ということが挙げられます。これは映像コンテンツを用いた反転授業に限らず、予習を要求する授業全てに言えることでしょう。真面目に予習をするメリットがあるかないかわからない状況で、予習をしてくる気にはならない、という学生の気持ちも理解できます。

 

これを解決する工夫として、私の授業では、初回の授業の中で予習を「体験」してもらっています。

 

私の担当授業では、初年次の演習等、一部の科目で予習を課しています。また、「LTD話し合い学習法」をアレンジした授業も行なっています。これらの授業は、学生が予習をしてきていることを前提にしており、予習をしている学生の割合が7割を切ると、授業の実施自体が困難になります。このため、予習の必要性を早い段階でわかってもらう工夫が必要になりました。

 

反転授業関連の文献や講演では、最初の数回は予習をしてこない学生に痛い目を見せるしかない、等と言われることがあります。これは確かに一つの解決法で、この方法を用いたとしても、反転授業にはそれを補って余りある効果があるのも事実です。しかし、荒療治であるという感は否めません。

 

これに対して、私は、初回のガイダンスの授業の後半を予習とそれを使った授業の「体験」にあてることで、予習が必要であることを学生に実感してもらう、というやり方を取っています。少し詳しく書くと、以下の通りです。

 

  1. 初回授業前半、通常のガイダンスの段階で、予習が必要であることを強調しておく。
  2. 実際に予習してもらうのと同様の課題に30分程度取り組ませる(分量の調整は必要)。
  3. この課題は本来予習として取り組むものであること、実際の授業は、この後のワークからいきなりスタートすることを説明する。
  4. 実際に、予習を前提したワークに取り組ませる。

 

この後で、「なぜ予習が必要だとあんなに強調したかわかってもらえましたか?」と尋ねると、学生たちは苦笑しながらも理解してくれます。予習していない状態での授業を90分間体験させるより、お互いに負担や無駄を軽減しつつ予習の必要性をわかってもらえる方法だと感じています。

 

映像教材を使った反転授業の場合は、その場で各自に映像を見てもらうのは難しいと思います。しかしその場合でも、初回授業の中では文章教材等で予習をさせ、「実際の自宅学習ではこれに相当するような映像を見てもらいます」という解説を加えておけば問題ないでしょう。

初回授業とアイスブレイク

私が勤務する宮崎公立大学では、来週月曜から新学期の授業が始まります。多くの教員の新学期は、この初回授業の準備とともに始まります。
 
この初回の授業の計画にあたって、何から手を付ければよいのでしょうか。もちろん書籍などを当たればよりきちんとした解説がありますが、私が「とりあえず」やることにしているのは、「アイスブレイク」でwebを検索して、自分の授業に合ったアイスブレイクを探すことです。この一手から初められるかどうかで、授業準備の効率と初回授業の質は大きく変わるはずです。
 
初回授業には、ほぼ全ての授業に共通する目的・目標があります。それは、「授業の内容・やり方を知ってもらう」ことと、「学生の緊張をほぐす」ことです。これに対応して、初回の計画にあたってとりあえずやるべきことは、「シラバスの内容を確認する」ことと、「授業に合ったアイスブレイクの方法を考える」となります。
 
前者のシラバスについては、あえて私が説明するまでもないでしょう。これからの授業の進め方を説明しておくことで、学生の履修選択の材料を提供したり、見通しを良くしてモチベーションを高めたり、また、自分が次回以後の授業を進めやすい状況を作ったりすることができます。学生にとっては評価方法が重大な関心事でしょうから、もし可能ならこれについても時間を割いて説明するのが望ましいでしょう。
 
後者についてはどうでしょうか。大学の先生の中には、分野によっては、「アイスブレイク」という言葉を聞いたことがないという方もいらっしゃるのではないでしょうか。アイスブレイクとは、一般に研修会やワークショップなどで、参加者の緊張を解すことを主目的に行うワークのことです。15回の授業の初回は学生も緊張しています。初回にこのワークをを行って学生同士の距離感や学生と教員の距離感を縮めておけば、次回以後の授業を円滑にすすめることが可能になります。
 
とはいえ、緊張をほぐすためのワークを自分で一から考えるのは至難の業です。というわけで、「『アイスブレイク』と検索窓に打ち込んでみる」ことが、最初にやるべきことだということになります。アイスブレイクには、自己紹介にアレンジを加えたオーソドックスなもの、かなりくだけた遊びのようなもの、授業のテーマに関連付けることが可能なものなど、様々なタイプの物があります。その中から、受講人数、科目の内容、時間的リソース、準備の都合などを考慮して、自分の授業に適したものを選んでゆくことになります。
 
ただ「検索しろ」とだけ書くのも不親切なので、役に立つサイトを二つご紹介しておきます。いずれも、豊富な事例が紹介されており、授業に合うものもきっと見つかるはずです。
 
 
 
ただし、大学生の場合、あまりに授業の内容と関連のない子どもの遊びのようなゲームを選ぶと、場が白けてしまう可能性もあるでしょう。うまく授業と関連付けられるようなワークを選ぶことが大切です。演習系の授業であれば、使いやすいのは、自己紹介のワークや、組み分け系のワークでしょう。そのほか、授業内容に関連するようなテーマで学生同士でしりとりをしてもらう、といったこともできるかもしれません。もちろん、身体を動かすことが前提の授業であれば、子どもでもできるレクリエーションのようなワークが適切だということになるでしょう。いずれにせよ、うまくアレンジを加えて、授業内容に関連付けることが重要になります。
 
また、私は、ワークがすんでから、「アイスブレイク」の意義や、ワークの選択の意図について説明するようにしています。学生に自律的な学習者になってほしい、卒業までに研修を受けるだけでなく実施する側のスキルも身につけてほしいという想いからです。また、どんなに適切なワークを選んでも「子どもだまし」「なぜ大学生にもなってこんなことを」というような印象をもつ学生もいると思うので、「種明かし」をすることで、それらの学生のモチベーションの低下を防ぐこともできるのではないかと考えています。
 
というわけで、初回授業の計画時には、数カ月前に提出して忘れかけているシラバスを読みなおすことに加えて、『アイスブレイク』と検索窓に打ち込んでみること、あるいは上でご紹介したしたサイトにアクセスしてみることをおすすめします。

『インタラクティブ・ティーチング』の思い出(と、宣伝)

書籍『インタラクティブ・ティーチング:アクティブ・ラーニングを促す授業づくり』が、去る2月に河合出版より発売されました。私は第3章「学習の科学」を執筆しました。
 
インタラクティブ・ティーチング―アクティブ・ラーニングを促す授業づくり

インタラクティブ・ティーチング―アクティブ・ラーニングを促す授業づくり

 

 

この書籍のもとになったのが、JMOOCs講座「インタラクティブ・ティーチング」です。この講座の内容は現在は「東大FD」のwebサイト上で公開され、書籍と合わせて視聴することができるようになっています。
 
 
さて、書籍の宣伝もかねて、私自身も携わっていたこちらのプロジェクトについて、少し思い出話をしてみたいと思います。
 
インタラクティブ・ティーチング」はプラットフォーム"gacco"を利用して運営・公開されていた、インターネット上で受講する講義です。MOOCsについて詳しくは他のサイトを参照していただければと思いますが、ざっくり言うと映像コンテンツを視聴し、関連する小テストやレポート課題に取り組んで合格すれば履修証が発行されるというものです。インタラクティブ・ティーチングは東京大学・大学総合教育研究センター(大総センター)と日本教育研究イノベーションセンター(JCERI)の共同開発によるプロジェクトで、東大からは中原淳先生・栗田佳代子先生が開発の中心メンバーとして参加されました。
 
さて、私は2014年の4月から11月にかけて、大学総合教育研究センターの教育課程・方法開発部門に特任研究員として勤務しており、プロジェクトの立ち上げと、映像コンテンツの作成に携わっていました。と言っても、私のメインの仕事は同部門も当時のもう一つの主要プロジェクト、東京大学フューチャー・ファカルティ・プログラム(東大FFP)の運営・広報でしたので、インタラクティブ・ティーチングについては教材の一部を担当する等、後方支援に近い形で携わりました。たとえば、教材中にあまり出来の良くないレポート課題を採点するワークが含まれていますが、このレポートの例を作成したことを覚えています。
 
当時、プロジェクト全体の進行を統括・管理されていたのは当時同センターにいらした小原優貴さん(現・東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属教養教育高度化機構 特任准教授)、広報の中心となり、書籍にも収録されているストーリー・セッションの開発にも関わられていたのが、現在も同センターで特任研究員をされている山辺恵理子さんです。
 
このプロジェクトで印象に残っているのは、なんといってもそのスピード感です。映像をご覧になった方は、実際の大学院生を前に講義をする栗田先生の姿を覚えていらっしゃると思いますが、この、生徒役の大学院生を前に授業をするスタイルも初めから決まっていたわけではなく、私が4月に着任してからアイディアが出され、実現されたものでした。どんどん新しいアイディアが生み出され、よいものは着実に実行に移されていく、その様子に感銘を受けました。(もちろん、実際に渦中にいた身ですので、のんきに感銘を受けてばかりはいられませんでしたが。)このスピード感ある職場で仕事の進め方を学べたことは、徳島大学時代も、現在の宮崎公立大学でも、私にとって大きな財産となっています。
 
インタラクティブ・ティーチングの映像を含む教材と書籍は、東大FFPで行っていた将来教員となる大学院生向けの授業の作り方についての授業、また、新任教員向けの授業の作り方についての講座の内容を概ね反映して作られています。ただ、提示順序については、大学教員以外の教育に興味を持つ方々にもわかりやすいよう、シラバスの書き方など大学特有の事項は後半に回され、アクティブ・ラーニングなどより広い「学びの場」で活用できる手法や知識の紹介を前半に置く工夫がなされています。大学以外で教えている皆さんは、大学との違いを考えてみるのもおもしろいかもしれません。
 
大学での授業を担当することになったらまず読むべき本としては、これまでも『大学教員準備講座』(夏目達也ほか著、名古屋大学出版会)や、『大学教員のための授業方法とデザイン』(佐藤浩章著、玉川大学出版部)がありました。また、既にある程度の教授法を身に着けている教員が必要に応じて読むべき本としては、『協同学習の技法』(デイビスほか著、ナカニシヤ出版)や、『大学教員のためのルーブリック評価入門』(スティーブンスほか著、玉川大学出版部)、『大学における「学びの場」づくり』(アンブローズほか著、玉川大学出版部)があります。
 
自画自賛するようではありますが、『インタラクティブ・ティーチング』は、これら両方の長所を備えた本だと言えます。授業づくりに関する知識はまだ全く無いという大学院生の方にも、また、すでに授業にある程度の自身を持っている先生方にも、基本を確認しながら、自ら授業づくりについてより高いレベルで学びつづけるための橋渡しができる本になっているはずです。ぜひご笑覧いただければと思います。

徳島大学を(5ヶ月前に)退職しました

既に5ヶ月が経過してしまいましたが、昨年度いっぱいで、約1年半にわたってお世話になった徳島大学を退職し、4月から宮崎公立大学助教として赴任いたしました。
 
わざわざ「退職しました」というタイトルにしたのは、よくIT系の方が書いている「退職エントリ」のパロディという意味合いもありますが、宮崎公立大学に内定を頂いてから職場に退職の報告をするまでのことを、ある程度記録に残しておきたいと考えたためです。というのも、webでも、また他の大学や学部に関する噂でも、退職時の対応を誤ると嫌な思いをするという話をたくさん目に・耳にしており、実際に退職報告のさいに必要以上に胃を痛めることになったからです。
 
はじめに書いておくと、実際には、元の職場である徳島大学・総合教育センターの先生方、また職員の皆さまには、大変暖かいご対応を頂きました。おそらくそのような「円満退職」の事例も世の中にはたくさんあるのだと思いますが、残念ながら、それをわざわざ書き残される方は少ないようです。そのために職場を移る際に私のように過剰に不安になってしまう方も多いのではないかと思い、今回ここに経緯を公開したいと考えました。
 
基本的なこととして、研究者の転職活動は、職場には伝えずに行うのが普通です。これは他の職種の転職活動と同じではないかと思います。日常業務の傍ら、公募をチェックし、書類を書いて応募、また、有給等を使って面接等に出向く、ということになります。ただし、特にエージェント等は介さない孤独な作業になるという違いはあります。なお、私の場合、徳島大学での職は任期3年更新なしという契約でしたので、学内外いずれかでなんとか次の職を見つける必要があったということも書き添えておきます。近年、このような任期付きのポストが増えており、転職活動をせざるを得ない若手の大学教員の数は非常に多くなってきています。
 
さて、内定を頂いてからのことですが、既に書いたとおり、webには不安を煽るような情報があふれていました。曰く、職場に伝えると嫌がらせを受けるのでぎりぎりまで伝えないほうが良い、とか、最悪の場合内定取り消しのために働きかけられることがある、とか。もちろん、これらの事例は、あまりに極端で、自分の職場では考えられないようにも思われました。また、ギリギリに伝えたのでは、自分は良くても、職場に大きな迷惑がかかってしまい、いらぬ恨みを買ってしまうことにもなります。しかし、一度そういった悪い情報を目にしてしまうと、根が心配性な私はどうしても不安になってしまいます。いろいろと悩んだ結果、恐ろしい体験談のことは一旦忘れるとして、一般的な職場と同様の手続きを踏むことにしました。とにかく誰にも話さずに転職活動をしていますから、情報源はネットにしかありません。私の場合、リクナビNEXTの以下の記事(の旧バージョン)を参考にしました。
 
 
大学教員は通常の会社組織とは微妙に異なる組織になっていますが、まず、直属の上司にあたる教員に伝え、了承を得た上で、そこから段階を追って所属長まで事情をお話しし、そのあとで同僚と事務職員の皆さんにお伝えするようにました。
 
結果的には、初めに書いたとおり、みなさん任期付きである私の事情も汲んでくださり、大変あたたかくご対応くださいました。また、私の将来を応援してくださいました。徳島大学総合教育センターの皆さんには、そのことを今でも深く感謝しています。
 
以上が、私の転職のさいの経緯です。念のため注意していただきたいのは、あくまでも、一つの事例としてお読みいただきたいということです。私の方法が最良だったのかどうかはわかりません。特に伝える順番については私自身一番悩みました。同僚の先生方に先に伝えるという考え方もあると思います。しかし、いずれにせよ、身にしみて感じたのは、こういった情報があまりにも手に入りにくいということです。このブログが、少しでも、後に続く方々の参考になればと思っています。また、「ぎりぎりまで職場には伝えない方がよい」という噂を鵜呑みにし過ぎないよう、もちろん場合によってはそれがよいということもあるのでしょうが、いろいろな場合があるのだということを知って頂けると大変うれしいです。
 
最後になりましたが、現在は、宮崎公立大学人文学部で、哲学を担当し、学生の指導にあたっています。授業にあたっては、ジグソー法など、FDセンターで身についたアクティブ・ラーニングの手法を活用し、ある程度の手応えも感じています。また、研究面でも、昨年度は論文を書けなかったのですが、本年度はすでに商業誌(『情況』6・7月号)に寄稿するなど、少しずつ成果の発信にも着手しています。
 
このブログについては、既にかなり放置気味ではありますが、本業に支障のない範囲で、気が向いた時に更新していけたらと思っています。上記の教育や研究のことについても、そのうちご報告できればと思います。

哲学史研究とイノベーション

来週、10月22日(木)から、徳島大学教養教育院(仮)設置準備室・講師の北岡和義先生が中心となった、「徳島大学イノベーションチャレンジ」(TIC)という教育プログラムがスタートします(TICのFacebookページはこちら。)。これに先立ち、15日(木)は、東京大学i.schoolより、エグゼクティブ・ディレクターの堀井秀之先生をお招きした、「第1回イノベーション教育講演会」が行われました。私は、TICの立ち上げにほんの微力ながら協力している縁もあり、スタッフ兼受講生のような形で、お話をお聞きすることができました。

 
お話の中で、「イノベーション」を生み出すために特に重要なのは、「アナロジー」の活用である、ということが強調されていました。堀井先生のバックグラウンドが社会基盤工学であることからもわかるように、「イノベーション」は、工学系の学部・研究会、また産業界を中心に注目を集めてきた言葉です。しかし、考えてみれば、思考・発想のプロセスに人文系も工学系も関係ありません。その証拠に、実はアナロジーを用いた思考・発想法は、哲学史研究、特に、1人の哲学者にフォーカスした研究において多用されています。
 
1人の哲学者にフォーカスした研究は、日本では、哲学の最も基礎的な研究方法として定着しています。そこで培った研究方法を基礎として、更に射程の広い哲学史研究や、あるいは独自の哲学体系の構築へと進む、というわけです。この種の研究は典型的に「◯◯における✕✕について」というタイトルの論文にまとめられることから、「おける論文」などと嘲りのニュアンスを含んで言われることもありますが、哲学研究がこれを軸に発展してきたことは疑いようもありません。ちなみに、私自身の研究も主にヘーゲルにフォーカスしており、この「おける論文」の段階にあります。
 
さて、このように最も一般的な哲学の論文のスタイルである「おける論文」ですが、そこで何が起こっているのかは、実は必ずしもはっきりしません。もちろんそこでは、先行研究の批判的検討と、原典の読解とを踏まえて、ある独創的な解釈が提示される、あるいは特定の解釈方針に新たな根拠付けが与えられる、ということがなされています。しかし、そこにはもう一つ、暗黙のルールがあります。それは、「対象としている哲学者の思想の現代的意義を示す」というものです。これが必要なのは、「その哲学者が研究するに値する」ということを示すためです。とくにヘーゲルのようにわけのわからないことをよく口走る晦渋な哲学者を研究する際には、これは最も難しく、また同時に最も面白い作業でもあります。
 
それでは、現代的意義を示すためには、どのような手法が取られているのか。それが、アナロジーの活用、あるいはアブダクション的な推論なのです。「おける論文」には、かならず原典のテクストがあります。しかし、現代的意義を示すためには、原典を読み込むだけでは不十分です。現代の問題状況・文脈を持ってきて、突き合わせる必要があります。より直観的に言えば、「ヘーゲルが現代に生きて、この論争を知っていたら何と答えるだろう?」と考えることが必要です。ではこのとき、どのような文脈を突き合わせるべきか。ここに現れるのが、研究者の「ウデ」であり、その研究の独創性です。哲学史研究者は(少なくとも私は)、日々の読書=研究のなかで、現代の論文を読んでは「お、ヘーゲルがあそこで言ってたことに関係あるかも?」と考え、あるいは原典を読んでは、「現代のあの問題とつながるんじゃないか?」と考えているのです。
 
そしてここで重要な役割を果たしているのが、アナロジーです。現代の論争状況と、遠く数百年の時を隔てたテクストとの間に類似点を見出すこと。これによって、過去のテクストとの類似性を手がかりに現代に新たな視点をもたらすことが、あるいは逆に、現代の文脈との類似性を手がかりに過去のテクストに新たな生命を吹き込むことが、可能になります。あまり表立って語られることはありませんが、これこそが哲学史研究の醍醐味である、とすら言えるのではないかと思います。
 
ただし、このように研究手法の中心にアナロジーの活用が含まれるということは、「おける論文」の限界をも同時に示しています。第一に、このような研究は、アナクロニズム(時代錯誤)に陥る危険を秘めています。背景を見誤り、字面だけは似ていても、実際には全くその哲学者とは関係のない主張を帰属してしまう、ということが生じ得ます。ここで詳しく論じることはしませんが、一般にアナロジーを活用するということは、類似性に関する洞察を根拠に、データに基づかない飛躍を含んだ推論をするということです。ここに誤りが含まれていれば、イノベーションの文脈では失敗となり、哲学史研究ではアナクロニズムに陥る、ということになります。そして第二に、当然ながらこの種の研究は、過去のテクストに似ている問題・解答しか扱うことができません。過去のテクストには現れない重要な問題を扱いたい、あるいは、過去のテクストから引き出せるのとは異なる答えを提示したい、と考える場合には、別の研究スタイルを選択する必要が生じるということです。
 
どうしても過去の哲学者に縛られる哲学史研究において、独創的な価値はどこから生み出されるのか、また、その限界はどこにあるのか。これらの問いには、博士論文を執筆するにあたって日々悩まされています。「イノベーション教育講演会」は、この悩みに意外な方向から光を当てるきっかけとなりました。
 
ところで、このことを逆側から考えてみると、一般に人文学とは縁遠いと思われがちなイノベーションという領域に対して、人文学からのアプローチが可能だということも言えるのではないかと思います。教育学でもそうですが、例えば「創造性」のような素朴な概念をより詳しく分類してその内実を明らかにする、という手法は、アリストテレスが好んで用いていた、哲学における伝統的な手法です。また、もっと比喩的に考えれば、「イノベーション」は「遊び」から生まれるものであり、その「遊び」の幅を広げるのが人文学の機能のひとつです。人文学にも社会への貢献が求められるようになった現代、「イノベーション」はそれを可能にする切り口の一つなのではないかと思います。