川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

ファカルティ・ディベロップメントの概念

私の職場は、いわゆるFDセンターである。「FD」とは、faculty developmentの略である。文部科学省によるややこしい定義もあるが、さしあたり、「教育」を切り口に大学をよくしていく活動、として理解しておけばよいだろう。さて、奇妙なことに、この語には、和訳が存在しない。なぜだろうか。

 
ファカルティ・ディベロップメントを直訳すると、「大学教員の能力開発」となる。しかし、「能力開発」という語は、なんとなくグロテスクである。私は徳島に来て初めて知ったのだが、出身地域によっては、塾を思い出すという方もいるだろう。「能力開発」という語がファカルティ・ディベロップメントの訳語として座りが悪いのは、未開の地に都市を開発する場合のように、破壊再構築のプロセスを想起させるからかもしれない。
 
しかし、ことFDの”D”については、このような意味で理解されてはならない。私は、FDの”D”の意味を理解するためには、developmentの原義に立ち返らなければならない。人文系の教員の皆さまならご存知であろうが、「包みがほどけて、包まれていたものが現れる」というのがdevelopmentの原義である。日本語では、「展開」という訳語を当てることもある。(余談だが、私が元来の専門とするヘーゲル哲学、特に『大論理学』の「概念論」では、 developmentに対応するEntwicklung(独)という語が、重要な述語として登場する。そこでヘーゲルは、「ここでなされる叙述によって、包みが解けて隠されていたものが表に現れてくる」という意味をこの語に込めて用いている。)
 
developmentを「破壊と再構築」として理解してしまうと、「FDとは、大学教員のこれまでの教育活動を否定=破壊して、新たな教育の枠組みを押し付ける=再構築することである」という誤解が生じかねない。しかし、FDに関わる多くの者が身を持って感じていることであるが、FDは押し付けてもうまくいかない。また、押し付けられるべきでもない。FDerの仕事は、「大学教員の教育の監視・指導」ではなく、「大学教員の職務遂行を(主に教育方法の面から)支援すること」なのである。それゆえ、FDのDは、「展開」という、この語の原義に忠実に理解されなければならない。このときはじめて、faculty developmentは、大学教員が、「本来持っていた力を十分発揮できるようにすること」として、初めて正しく理解できることになる。
 
 

 

大学教員のための授業方法とデザイン (高等教育シリーズ)

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