ファカルティ・ディベロップメントの概念
私の職場は、いわゆるFDセンターである。「FD」とは、faculty developmentの略である。文部科学省によるややこしい定義もあるが、さしあたり、「教育」を切り口に大学をよくしていく活動、として理解しておけばよいだろう。さて、奇妙なことに、この語には、和訳が存在しない。なぜだろうか。
ファカルティ・ディベロップメントを直訳すると、「大学教員の能力開発」となる。しかし、「能力開発」という語は、なんとなくグロテスクである。私は徳島に来て初めて知ったのだが、出身地域によっては、塾を思い出すという方もいるだろう。「能力開発」という語がファカルティ・ディベロップメントの訳語として座りが悪いのは、未開の地に都市を開発する場合のように、破壊再構築のプロセスを想起させるからかもしれない。
しかし、ことFDの”D”については、このような意味で理解されてはならない。私は、FDの”D”の意味を理解するためには、developmentの原義に立ち返らなければならない。人文系の教員の皆さまならご存知であろうが、「包みがほどけて、包まれていたものが現れる」というのがdevelopmentの原義である。日本語では、「展開」という訳語を当てることもある。(余談だが、私が元来の専門とするヘーゲル哲学、特に『大論理学』の「概念論」では、 developmentに対応するEntwicklung(独)という語が、重要な述語として登場する。そこでヘーゲルは、「ここでなされる叙述によって、包みが解けて隠されていたものが表に現れてくる」という意味をこの語に込めて用いている。)
developmentを「破壊と再構築」として理解してしまうと、「FDとは、大学教員のこれまでの教育活動を否定=破壊して、新たな教育の枠組みを押し付ける=再構築することである」という誤解が生じかねない。しかし、FDに関わる多くの者が身を持って感じていることであるが、FDは押し付けてもうまくいかない。また、押し付けられるべきでもない。FDerの仕事は、「大学教員の教育の監視・指導」ではなく、「大学教員の職務遂行を(主に教育方法の面から)支援すること」なのである。それゆえ、FDのDは、「展開」という、この語の原義に忠実に理解されなければならない。このときはじめて、faculty developmentは、大学教員が、「本来持っていた力を十分発揮できるようにすること」として、初めて正しく理解できることになる。