川瀬和也 研究ブログ

宮崎公立大学で教員をしています。専門は、(1)ヘーゲル、(2)行為の哲学(3)プラグマティズム。英語圏のいわゆる分析系のヘーゲル研究の成果を取り入れながら、ヘーゲルの議論の再構成を目指しています。主要著作:論文「ヘーゲル『大論理学』における絶対的理念と哲学の方法」で日本哲学会若手研究者奨励賞受賞。共著に『ヘーゲルと現代思想』(晃洋書房・2017年)ほか。お仕事のご依頼・ご質問はフォームへ→https://goo.gl/forms/klZ92omOgEvsjcCi1

哲学史研究とイノベーション

来週、10月22日(木)から、徳島大学教養教育院(仮)設置準備室・講師の北岡和義先生が中心となった、「徳島大学イノベーションチャレンジ」(TIC)という教育プログラムがスタートします(TICのFacebookページはこちら。)。これに先立ち、15日(木)は、東京大学i.schoolより、エグゼクティブ・ディレクターの堀井秀之先生をお招きした、「第1回イノベーション教育講演会」が行われました。私は、TICの立ち上げにほんの微力ながら協力している縁もあり、スタッフ兼受講生のような形で、お話をお聞きすることができました。

 
お話の中で、「イノベーション」を生み出すために特に重要なのは、「アナロジー」の活用である、ということが強調されていました。堀井先生のバックグラウンドが社会基盤工学であることからもわかるように、「イノベーション」は、工学系の学部・研究会、また産業界を中心に注目を集めてきた言葉です。しかし、考えてみれば、思考・発想のプロセスに人文系も工学系も関係ありません。その証拠に、実はアナロジーを用いた思考・発想法は、哲学史研究、特に、1人の哲学者にフォーカスした研究において多用されています。
 
1人の哲学者にフォーカスした研究は、日本では、哲学の最も基礎的な研究方法として定着しています。そこで培った研究方法を基礎として、更に射程の広い哲学史研究や、あるいは独自の哲学体系の構築へと進む、というわけです。この種の研究は典型的に「◯◯における✕✕について」というタイトルの論文にまとめられることから、「おける論文」などと嘲りのニュアンスを含んで言われることもありますが、哲学研究がこれを軸に発展してきたことは疑いようもありません。ちなみに、私自身の研究も主にヘーゲルにフォーカスしており、この「おける論文」の段階にあります。
 
さて、このように最も一般的な哲学の論文のスタイルである「おける論文」ですが、そこで何が起こっているのかは、実は必ずしもはっきりしません。もちろんそこでは、先行研究の批判的検討と、原典の読解とを踏まえて、ある独創的な解釈が提示される、あるいは特定の解釈方針に新たな根拠付けが与えられる、ということがなされています。しかし、そこにはもう一つ、暗黙のルールがあります。それは、「対象としている哲学者の思想の現代的意義を示す」というものです。これが必要なのは、「その哲学者が研究するに値する」ということを示すためです。とくにヘーゲルのようにわけのわからないことをよく口走る晦渋な哲学者を研究する際には、これは最も難しく、また同時に最も面白い作業でもあります。
 
それでは、現代的意義を示すためには、どのような手法が取られているのか。それが、アナロジーの活用、あるいはアブダクション的な推論なのです。「おける論文」には、かならず原典のテクストがあります。しかし、現代的意義を示すためには、原典を読み込むだけでは不十分です。現代の問題状況・文脈を持ってきて、突き合わせる必要があります。より直観的に言えば、「ヘーゲルが現代に生きて、この論争を知っていたら何と答えるだろう?」と考えることが必要です。ではこのとき、どのような文脈を突き合わせるべきか。ここに現れるのが、研究者の「ウデ」であり、その研究の独創性です。哲学史研究者は(少なくとも私は)、日々の読書=研究のなかで、現代の論文を読んでは「お、ヘーゲルがあそこで言ってたことに関係あるかも?」と考え、あるいは原典を読んでは、「現代のあの問題とつながるんじゃないか?」と考えているのです。
 
そしてここで重要な役割を果たしているのが、アナロジーです。現代の論争状況と、遠く数百年の時を隔てたテクストとの間に類似点を見出すこと。これによって、過去のテクストとの類似性を手がかりに現代に新たな視点をもたらすことが、あるいは逆に、現代の文脈との類似性を手がかりに過去のテクストに新たな生命を吹き込むことが、可能になります。あまり表立って語られることはありませんが、これこそが哲学史研究の醍醐味である、とすら言えるのではないかと思います。
 
ただし、このように研究手法の中心にアナロジーの活用が含まれるということは、「おける論文」の限界をも同時に示しています。第一に、このような研究は、アナクロニズム(時代錯誤)に陥る危険を秘めています。背景を見誤り、字面だけは似ていても、実際には全くその哲学者とは関係のない主張を帰属してしまう、ということが生じ得ます。ここで詳しく論じることはしませんが、一般にアナロジーを活用するということは、類似性に関する洞察を根拠に、データに基づかない飛躍を含んだ推論をするということです。ここに誤りが含まれていれば、イノベーションの文脈では失敗となり、哲学史研究ではアナクロニズムに陥る、ということになります。そして第二に、当然ながらこの種の研究は、過去のテクストに似ている問題・解答しか扱うことができません。過去のテクストには現れない重要な問題を扱いたい、あるいは、過去のテクストから引き出せるのとは異なる答えを提示したい、と考える場合には、別の研究スタイルを選択する必要が生じるということです。
 
どうしても過去の哲学者に縛られる哲学史研究において、独創的な価値はどこから生み出されるのか、また、その限界はどこにあるのか。これらの問いには、博士論文を執筆するにあたって日々悩まされています。「イノベーション教育講演会」は、この悩みに意外な方向から光を当てるきっかけとなりました。
 
ところで、このことを逆側から考えてみると、一般に人文学とは縁遠いと思われがちなイノベーションという領域に対して、人文学からのアプローチが可能だということも言えるのではないかと思います。教育学でもそうですが、例えば「創造性」のような素朴な概念をより詳しく分類してその内実を明らかにする、という手法は、アリストテレスが好んで用いていた、哲学における伝統的な手法です。また、もっと比喩的に考えれば、「イノベーション」は「遊び」から生まれるものであり、その「遊び」の幅を広げるのが人文学の機能のひとつです。人文学にも社会への貢献が求められるようになった現代、「イノベーション」はそれを可能にする切り口の一つなのではないかと思います。