ヘーゲルと観念論(ヘーゲル(再)入門ツアー・予稿その2)
前回の記事で、「正反合」や歴史の目的論だけがヘーゲル哲学ではない、ということをお話ししました。
では、ヘーゲル理論哲学とは一体何なのか、というのがこの記事のテーマです。
ヘーゲルには方法論しかない?
「弁証法」があまりにも強調されすぎたことの負の遺産として、ヘーゲルは方法論に関しては功績があったが、哲学の内容にかんしては目立った功績がなかった、という誤解が広まってしまった、という理解が一般に流布していることがあります。例えば『ソフィーの世界』にはこれに近い記述があります。これは、ヘーゲル的な方法論だけを採用し、換骨奪胎しようとしたマルクス主義的な解釈の名残でもあるでしょう。あるいは、いわゆる歴史の目的論こそがヘーゲル哲学だというヘーゲル理解も登場してきました。
しかし、当たり前のことですが、ヘーゲルにはヘーゲルなりの関心があり、哲学的な問題がありました。しかも彼の関心の中心は、人口に膾炙した歴史の目的論とは別のところにあります。それは何でしょうか。
ヘーゲルの観念論
ヘーゲル哲学の中心的な関心事とは何でしょうか。ヘーゲルは弁証法的な「対立」を強調することで、何を論じようとしたのでしょうか。
主著『大論理学』で、ヘーゲルが論じていたのはいわゆる理論哲学に関する内容、つまり、認識や存在に関する問題です。また、『精神現象学』では、理論哲学と実践哲学は不可分な仕方で論じられます。これらの議論において、弁証法的な「対立」の中で最も重要なものは、主観と客観の対立です。つまり、私たちの主観的な認識と、客観的な世界そのもののあり方の間にあるとされる対立です。
問題を鮮明にするには、懐疑論について考えてみるのがよいでしょう。古典的な問いとして、今あなたがこのブログを読んでいるということは夢ではなく現実だとなぜ言えるのか? といった問題を考えることができます。このような疑念が生じてくるのは、私たちが正しいと思っていること(主観的な認識)と、本当に生じていること(客観的な世界そのもののあり方)の間に断絶や対立があるように思われるからです。
こうした問題関心は、基本的にカント哲学の延長線上に成立しています。そもそもそうでなければ、なぜヘーゲル哲学が「ドイツ観念論」と呼ばれてきたのかを理解することも難しいでしょう。(ただし、近年では当時のドイツにおけるより多様な思想の展開を総体として扱うべきだという観点から、「ドイツ観念論」よりも「ドイツ古典哲学」という言葉がより好まれる傾向にあります。)カントが超越論的観念論を提唱し、ヘーゲルは弁証法と歴史の目的論を提唱した、という通俗的な哲学史では、二人のつながりが全く見えてきません。それなのに二人がひとまとめのように扱われることに違和感を覚えたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
このような観点からヘーゲルの理論哲学を理解するための入り口として、まずはカントとの違いを抑えることが重要です。カントは、私たちの認識の対象を「現象」と呼び、これは我々の認識作用と不可分でありながら、同時に客観的に存在すると主張しました。また、現象とは別に、認識と独立に存在する「物自体」があるとしました。これに対して、ヘーゲルにおいては、存在するものは、カントが物自体と呼んだものも含めて、さしあたりは人間の認識の対象となるものとして把握されます。それとは別に「物自体」を想定することをヘーゲルはよしとしません。こうしたことは専門の研究者の間では常識に属することですが、まだまだ一般には、それどころかヘーゲルを専門としない哲学者の間でも、十分には知られていないように思えます。
したがって、「物自体も含め全ては認識の対象となり、認識と不可分のものである」というのがヘーゲルの出発点ということになります。もちろんこのように主張しただけでは、我々が認識するものだけがあるというバークリー的な観念論や、我々は客観的なものについて知ることができないとする懐疑論、自分だけが存在し、それ以外のものは何も存在しないという独我論といった立場に肉薄してしまいます。ヘーゲルはこれらの立場を取るわけでもありません。つまり、思考によって初めて可能になるものではあるが、しかし同時にどうにかして客観的でもあるものとしてこの世界が把握される、というのがヘーゲル哲学の基本図式ということになります。
さしあたりこれを入り口として、ここで出てきた「どうにかして」の中身を掘り下げて考えてゆくことが、ヘーゲルを読むときの一つの道筋となります。これはまさにヘーゲルをどう読み、どう理解するかという問題に関わりますので、「入り口」を超えた、中身の問題と言えるでしょう。まずは「弁証法」に加えて、「絶対的観念論」のキーワードを入り口として示しておけば、興味のある方は掘り下げてゆくことが可能になるのではないかと思います。
※ヘーゲル(再)入門ツアーでは、ここで論じたことをよりかみ砕いてご紹介する予定です。もちろんその過程で話題を取捨選択したり、別の話題を選択したりする可能性もあります。「ヘーゲル(再)入門ツアー」の詳細は、下記リンクから、どうぞよろしくお願いいたします。
ヘーゲルと弁証法(ヘーゲル(再)入門ツアー・予稿)
ヘーゲル(再)入門ツアーに向けて、ブレストと宣伝を兼ねて、(できればこの先もシリーズで)記事を書いてみたいと思います。
ヘーゲルは「正反合」と言ったか?
高校倫理などの初級の哲学史では、哲学者はキャッチフレーズとともに教えられます。デカルトなら「われ思うゆえにわれあり」、ロックなら「タブラ・ラサ」カントなら「コペルニクス的転回」や「超越論的観念論」あたりがそれでしょう。ヘーゲルの場合、「弁証法」がそれにあたります。
それでは弁証法とは何でしょうか。テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)を止揚(アウフヘーベン)したジンテーゼ(合)へと発展してゆく図式のことだ、というのが、教科書によく出てくる説明でしょう。もちろん教科書的な図式で、哲学者の思考をそのまま紹介することはできません。どうしても解像度が低くなってしまいます。しかし、それにしてもこの図式はあまりにもヘーゲル哲学とかけ離れています。
最大の問題は、そもそもヘーゲルは「正反合」とは言っていないということです。不在の証明になるので完全に検証することは難しいのですが、、さしあたりはアクセスしやすい文献として、加藤尚武氏による辞書項目を提示しておきたいと思います。
「正反合」の何が問題か
「正反合」の図式だけ取り出すことの大きな問題は、単に「折衷案を考えよ」と言っているにすぎないように見えてしまうことです。小池百合子東京都知事が「アウフヘーベン」という言葉を使ったとき、テレビのワイドショーでは「いちご」と「大福」をアウフヘーベンして「いちご大福」を作る、という例が用いられていたと記憶しています。実際、弁証法やアウフヘーベンという言葉は、一般的にこのような意味として理解されているように思います。
しかし、これは哲学と言えるかどうかすら微妙です。むしろ、ある種のクリティカル・シンキングの方法論と言うべきでしょう。もちろんそれは有用な考え方ではありますが、ヘーゲルの「哲学」がここに集約されるとすると、ヘーゲルにはそもそも哲学がないかのように見えてしまいます。また、「対立する意見を折衷する」という考え方が、1800年ごろのヘーゲルによって初めて提示された、とするのも、常識的な感覚からかけ離れています。それまでも人類は折衷案を考えながらやってきたはずです。
とはいえ、私はここで、「弁証法警察」がやりたいわけではありません。このような図式で弁証法やアウフヘーベンを理解することは、ヘーゲルの術語の理解としては誤解であるにせよ、まさにクリティカル・シンキングの方法論としては有効です。「折衷案を考えるための思考法」に「弁証法」という名前がついているのはそれなりに便利でもあるとも思います。
私がここで問題にしたいのは、この通俗的な意味での「弁証法」を知っていても、ヘーゲル哲学入門にあまり役立たないということです。デカルトの「われおもうゆえにわれあり」やカントの「コペルニクス的転回」についてなんとなくイメージを持っておくことは、もちろん注意深さは必要ですが、多少の誤解や過度なデフォルメを含んでいたとしても、それなりに入門に役立ちます。しかしヘーゲルの「弁証法」はそうではないのです。『弁証法」はもちろんヘーゲル哲学の鍵概念ではありますが、ヘーゲルを呼んでも、弁証法=正反合という方法論についてまとまって論じられている箇所は出てきません。それとはあまり関係なさそうな、しかも非常に難解な叙述が続き、読者は取り残されることになってしまいます。
このことは、この図式で比較的うまく捉えられる箇所だけがヘーゲルの思想として取り出されてくるという事態も生んでいるように思います。これがもっとも顕著なのは高校倫理で、まるで正反合の弁証法と、目的論的な歴史哲学、それに社会哲学における家族・市民社会・国家および法・道徳・人倫の「正反合」だけがヘーゲル哲学であるかのように書かれてしまっています。(ちなみに今年のセンター試験では、このようなヘーゲル理解に基づいた問題が出題されました。)しかしこれはヘーゲル哲学のほんの一面にすぎません。社会思想は『法の哲学』をベースにしていますし、歴史哲学は『歴史哲学講義』をベースにしたもの。主著『精神現象学』や『大論理学』の内容とは異なります。カントにたとえれば、『永遠平和のために』だけが紹介され、三批判書には一切触れずに、これがカント哲学だと言われているかのような違和感があります。
「弁証法」をどう扱うか
そうはいっても、正反合の弁証法はヘーゲル哲学ではない、と言われると、ヘーゲル哲学のイメージが全く抱けなくなってしまうという方も多いでしょう。この問題への処方箋として、「弁証法」と「アウフヘーベン」を切り離して考えておくことが、入門には役立つのではないかと思います。
「弁証法」は、極限まで解像度を落として言えば、「二つの考え方の対立」に注目する考え方のこと。カントが自由と必然性の対立などの問題を論じる箇所は「弁証法」と同じ「ディアレクティケー」という言葉(「弁証論」と訳される)で名指されますが、基本的にはこれと同じ意味でヘーゲルはこの語を用いていると思います。ヘーゲルにおいて弁証法が鍵概念であるというのは、様々なトピックに関してこのような対立図式がよく出てきますよ、ということであって、「弁証法」という方法論についてヘーゲルがまとまった論考を残していますよ、という意味ではないのです。
この弁証法と、「アウフヘーベン」はさしあたり独立に理解できます。ドイツ語のアウフヘーベン(aufheben)には、「拾い上げる」と「捨てる」の両方の意味があります。そして、ヘーゲルはしばしばこの多義性を強調し、利用しています。ここで注意すべきなのは、「アウフヘーベン」という語そのものには、「対立物を総合・折衷する」という含みはない、ということです。
「アウフヘーベン」にもっとも近い日本語は、「洗練させる」ではないかと私は思っています(もちろん同じではありませんが)。アウフヘーベンは必ずしも対立物の総合ではありません。そうではなく、一つのもの(概念)をよく見て、その問題点を見つけ、それを取り除いてより良質なものを作り出す。これがアウフヘーベンの核となるイメージです。おいしいコーヒーをいれるには、問題のある「欠点豆」を取り除く作業が非常に重要だと言いますが、これなどが「アウフヘーベン」の語感に非常に良く合う例だと思います。悪いものを「捨てて」、よいものを「拾い上げる」。この両者を合わせて、「アウフヘーベン」と言うのです。
たしかに、弁証法とアウフヘーベンの両者を合わせて考えると、「対立物それぞれの悪いところを取り除いて、良いところを合わせて折衷する」という、おなじみの「正反合」に近い図式が出てきます。しかし、実際のヘーゲルのテクストでは、これらは常に一緒に出てくるわけではありません。バラバラに出てくる箇所を全て「正反合」で無理に読もうとしてもうまくいきません。
※ヘーゲル(再)入門ツアーでは、ここで論じたことをよりかみ砕いてご紹介する予定です。もちろんその過程で話題を取捨選択したり、別の話題を選択したりする可能性もあります。「ヘーゲル(再)入門ツアー」の詳細は、下記リンクから、どうぞよろしくお願いいたします。
教科書としての哲学系新書レビュー
A. 現代哲学系
B. 哲学史系
「LTD話し合い学習法」のアレンジ事例の共有
「LTD話し合い学習法」について
ディスカッション学習の利点
実際の進め方
予習パートSTEP1 課題文の通読STEP2 語彙の理解
課題文中の難しかった言葉を書き出し、その意味を調べてワークシートにまとめます。 STEP3 主張の理解
文章で最も重要な点を、自分の言葉で言い直します。全体を通して、筆者が一番言いたいことは何かを考えて書きましょう。このとき、できるだけ「抜き書き」せず、自分の言葉で書いてみてください。STEP4 構造の理解
文章全体の構造(アウトライン)を取り出してまとめます。筆者の主張を支持する根拠や事例を探し、つながりを明らかにするとよいでしょう。STEP5 他の知識との関連づけ
課題文以外から得た知識のうち、課題文の内容と関連のあるものをまとめます。 「課題文以外から得た知識」には、以下のものが含まれます。 他の文献や資料、授業等で知った内容 ニュースなどで知った内容 日常生活の中で見聞した内容 あなたの知識と、課題文の主張との類似点や相違点を検討し、新たに気づいたことも書き出します。 何も思い浮かばなければ、図書館等で関連する事典・書籍・論文を調べてください。 上の作業を通じて、新たに生じた疑問があれば、それも書き留めておきます。STEP6 知識の再構築
課題文を読んだことで、自分の考えがどんなふうに変わったか、特に納得できたことは何か等をまとめます。読んで考えたことを、あなた自身の血肉にするためのステップです。 課題文と関連する自分の体験などがあれば、それについてもまとめるともよいでしょう。STEP7 課題文の評価
課題文の優れたところや、課題文の問題点を書きます。 好き嫌いで書くのではなく、理由を挙げて論理的に書くことが重要です。 「課題文のこの点に問題があるため、このように修正するとよい」のような、建設的な評価ができるとよいでしょう。STEP8 ディスカッションのシミュレーション
ディスカッションの質を高めるために、作成したノートをもとに、ディスカッションをシミュレートします。 ディスカッションの各ステップで、自分は何をどのように発言するか、また、どのような質問がありうるか、それにどのように答えればよいかを考えます。ディスカッションパートSTEP1 導入(3分)
挨拶をし、体調などの状態を伝えます。また、予習の程度を報告します。集中してディスカッションに入るための、「心の準備」の時間でもあります。STEP2 語彙の理解(3分)
ワークシートを手掛かりに、言葉の意味を確認します。わからなかった言葉の意味を質問するのもOKです。STEP3 主張の理解(3分)
予習をもとに、筆者が最も言いたいことは何かを話し合います。予習の段階で意見が食い違っていれば、どの部分がより重要かを皆で考えます。STEP4 構造の理解(12分)
文章全体のアウトラインをお互いに発表し、主張と根拠、具体例等の関係を整理します。 文章の内容理解に関わる最後のステップです。おおまかなアウトラインがわかったら、細部にわたるまで、なるべくわからないところが残らないようにお互いに質問し合って議論しましょう。STEP5 他の知識との関連づけ(15分)
ワークシートにまとめた関連する知識や、それと課題文の主張との類似点や相違点をお互いに共有します。 ディスカッションの中で新たに思いついたことも、この時間に共有します。その場でスマートフォン等で検索したりしても構いません。ただし、事前に一度調べてきていることは前提です。 他のメンバーのアイディアを知り、一人では思いつかなかった視点から課題文を再度検討します。STEP6 知識の再構築(12分)
ワークシートにまとめた、自分の考えの変化や、自分の体験と課題文との関連について、お互いに共有します。 課題文で得られた知識から、今後の学生生活や人生で活かしたい教訓について、お互いに共有するようにします。STEP7 課題文の評価(3分)
課題文の良い点・気になる点について話し合います。 時間をあえて短く設定しています。課題文の長所・短所をすべて挙げるのではなく、最も重要な点についてのみ話し合うことが重要です。STEP8 活動の評価(6分)
配布するルーブリックを用いて、グループ活動を評価します。 グループ活動の評価が終わったら、個人の活動を振り返ります。
アレンジした箇所について
授業実施上のポイント
その他の資料について
安田利枝(2008)「LTD話し合い学習法の実践報告と考察 : 学ぶ楽しさへの導入という利点」https://ci.nii.ac.jp/naid/110006979679
書評:飯田洋介『ビスマルク』(中公新書, 2015年)
ビスマルクの評伝。近年、堅めの評伝型の新書が多く出ているが、本書は、ドイツ統一の立役者ビスマルクの生涯を扱った一冊である。専門外の新書なので専門家としての批評はできないが、ヘーゲル研究者の視点からみた魅力を記事にしてみる。
本書の面白さは、保守主義者であるビスマルクの観点から、ナショナリズムがどのような意味で「左翼思想」であったのかを実感できる点にある。現代ではナショナリズムは保守主義に直結するものとして連想される。しかし、19世紀においては、このナショナリズム=保守という図式は成り立たない。むしろナショナリズムは一人の君主が民を束ねる君主制支配からの脱却を象徴する思潮であり、自由主義と結びついて君主制を転覆させかねない左翼思想であった。ビスマルクは、保守主義者でありながらこのナショナリズムの時流を受け入れ、君主制を保持しながらドイツ国民国家を誕生させた人物である。読者はこのナショナリズムと保守主義の緊張関係をビスマルクの紆余曲折を通じて理解でき、またこれによって、プロイセン王室の支配を保ったままのドイツ統一が「上からの革命」と言われるゆえんをより深く理解することができる。
ところで、ヘーゲルやその後のヘーゲル左派の思想家・活動家達が生きた時代は、ビスマルクが生きた時代と重なっている。1815年生まれのビスマルクは、ヘーゲルの最晩年にあたる1827年から32年まで、ヘーゲルのいたベルリンのギムナジウムに通っており、31年に死去したヘーゲルと入れ違いに、34年にベルリン大学に入学している。また、1806年生まれのマックス・シュティルナー、1809年生まれのブルーノ・バウアー、1816年生まれのカール・マルクスといったヘーゲル左派に連なる論客たちとちょうど同世代にあたる。彼らと保守主義者ビスマルクの間には敵対関係があるのだが、ここで強調したいのはその点ではない。上で見た、ナショナリズムと保守主義の関係についてである。こと19世紀の政治思想を読む上では、ナショナリズムと保守主義は必ずしも結びついておらず、むしろナショナリズムは保守主義と緊張関係にある自由主義的な思潮であったということを押さえておく必要がある。本書を読むことで、これがどういうことか、実際のドイツにおける政治の動向に対応させて、当時の保守主義者ビスマルクの目から理解することができる。このような点において、この時代のドイツ史のみならず、ヘーゲルからヘーゲル左派へと連なる思潮に興味を持つものにとっても、本書は有用な示唆を与えてくれるであろう。
もちろんそのような特殊な興味を持たないものにとっても、近年よく話題になる「保守」と「ナショナリズム」の関係を考えるためのヒントとして、本書はおすすめできる。「愛国」が右派のプロパガンダに用いられ、左派系第一党の党首までもが「保守」を自称する時代である現代を、異なった観点から眺めてみることができるだろう。
ヘーゲル論理学に分け入る5冊
①海老澤善一『ヘーゲル『大論理学』』:「登場人物紹介」として
ヘーゲル論理学は、一般的な論理学と異なり、「論理的カテゴリーの発展」が物語のように描かれます。このため、論理学書ではなく哲学の古典を読むときの流儀で、はじめに大まかに全体像を把握しておくと読みやすくなります。これに役立つのが本書。この一冊をもってヘーゲル論理学の完全な理解を目指す、というのは本書の誤った使い方でしょう。むしろ、演劇を見る前の「登場人物紹介」として、軽く全体に目を通す気持ちで読むのがおすすめです。
②『加藤尚武著作集 第2巻 ヘーゲルの思考法』:ヘーゲル論理学の難しさに向き合う
『加藤尚武著作集』の中の一冊として公刊された本書。前半は単行本『哲学の使命』の採録で、特に論理学に特化した内容ではありません。論理学入門として有用なのは、後半の単行本未収録論文集の方。ここに、存在論から概念論に至るヘーゲル論理学についての加藤の論考がまとめて収録されています。帯にも解題から採用されている、「ヘーゲル論理学の主要な箇所について、哲学的に「深い」解釈をするまえに、何について、どういう内容を書いているのか明らかにする必要がある」という著者の言葉に、私は非常に共感しています。驚くべきことでしょうが、ヘーゲル論理学が何を論じているのか、200年以上が経った現在でも、全く明らかではないのです。この問題意識を前面に打ち出し、自らこの状況を変えようとした著者の論文の数々をまとめて読めるようになったことは、ヘーゲル論理学研究を着実に前進させる一歩となるでしょう。必読です。
④牧野広義『ヘーゲル論理学と矛盾・主体・自由』:マルクス主義的解釈を現代につなぐ
ヘーゲル論理学の具体的な内容が明らかでない、という問題に、伝統的に正面から向き合ってきたのは、マルクス主義的な解釈です。ヘーゲル自身の観念論を無視して唯物論として読み替えるという態度はアクロバティックではありますが、この解釈の伝統を全て単なる誤読として退けるのももったいない、そう言いたくなるだけの蓄積があります。そして、これを可能にするのが本書です。特に第I部「ヘーゲル論理学とは何か」は必読。おそらく図書館で多くの読者が出会ったであろう見田石介の論理学解釈について、問題点が丁寧に指摘され、そこから新たな解釈の可能性が開かれます。
③高山守『ヘーゲル哲学と無の論理』:大胆に解釈を投げ込む
私の恩師でもある高山守の博士論文をもとにした一冊。いましがた、ヘーゲル論理学の内実をまず明らかにすべきだという加藤尚武の言葉に共感すると書きましたが、たが、このように考えるようになったのは確実に高山先生の影響です。私は「無」を重視するという高山先生の解釈に必ずしも賛同するわけではありません。しかし、ヘーゲルの異様なまでに抽象的な文言をなるべく具体的な事例に則して解釈しようとする本書の方針に賛同し、この点を非常に尊敬しています。ヘーゲルが抽象的な文言を具体化するためのヒントをほとんど残していないため、ヘーゲル論理学研究はどうしても、大胆に自らの解釈を投げ込み、それがヘーゲルの文言に合うかを確かめる、という方法をとらざるを得ません。そうした方法に注目しながら読み進めることで、「ヘーゲル論理学の読み方」の体得に近づくことができるはずです。論理学解釈は後半部で展開されますが、そこだけをまず読む、という読み方も十分可能な一冊です。
「存在論」を第1版から訳出した唯一の書物としても重要な、寺沢訳『大論理学』。その訳注にも、単なる注にとどまらない、独立の注釈書と言ってもよいほどの価値があります。全体を通読するというタイプの使い方は難しいものの、『大論理学』の特定の箇所について知りたいとき、寺沢の訳注は常に有用な示唆を与えてくれます。
おわりに
ヘーゲルの主要著作、どの訳で読む?
ヘーゲルの著作は出版の事情も複雑で、読む前にこれを整理して押さえるだけでも一苦労です。しかも訳書も複数あり、比較して選択しなければなりません。この記事では、『精神現象学』と『大論理学』に絞って、邦訳を比較していきます。
0.基礎知識
ヘーゲル生前の公刊著作は、『精神現象学』『論理の学(大論理学)』『エンツュクロペディー(小論理学・自然哲学・精神哲学)』、『法の哲学』の四つしかありません。ただし、『論理の学』は「存在論」「本質論」『概念論」の3分冊となっており、「存在論」のみ第1版と第2版があります(ヘーゲルが改訂途中で亡くなったため)。
ちなみに、この記事で詳しく扱いませんが、『エンツュクロペディー』は二度改版され、第1版から第3版まであります。『エンツュクロペディー』と『法の哲学』には「補遺」つきのものが存在します。この「補遺」はヘーゲルの死後に弟子が年代の異なる講義ノートをつぎはぎしてつくったもので、ヘーゲルの真の著作とは見なされなくなってきています。
公刊著作とは別に、美学、宗教哲学、歴史哲学、哲学史については、講義録のみが残されています。この講義録も、古くから普及していた版はヘーゲルの死後に弟子が編集したもので、一次資料としての価値が疑問視されています。また、編集前の講義ノートも公刊が進んでおり、また、著作と重なる内容(論理学、自然哲学、法哲学など)の講義ノートも残されています。このほか、草稿も多く公刊され、邦訳もされています。しかしこれらについては非常に煩雑になるため、この記事ではさしあたり割愛します。
1.精神現象学
多くの邦訳が存在するのが精神現象学ですが、ここでは金子訳(岩波書店)、樫山訳(平凡社ライブラリー)、長谷川訳(作品社)をメインに紹介します。
研究者の間では、金子訳が訳注とともに高い評価を受けています。しかし現在では古本としてしか入手できず、ヘーゲルを専門的に研究する者にとっては必携でも、それ以外の方が手元におくことはあまり現実的ではないでしょう。また、訳語・訳注ともに、さすがに少し古くなってきていることも否めません。
唯一のソフトカバーで、もっとも手に入れやすいのが樫山訳です。樫山役は、誤訳も一部にはありますが許容範囲で、おおむね手堅い訳です。哲学科の院生や、ヘーゲルを専門としない研究者の方が使うのに適しています。もちろんヘーゲル研究者にとっても、ライブラリー版の取り回しのしやすさから使いやすい版といえます。
長谷川訳は、大胆な意訳で知られ、研究者からは敬遠されています。私も、長谷川氏の入門書の類いは高く評価していますが、この訳業については、帯に短したすきに長し、という印象を持っています。解説書としては説明不足である一方、純粋な訳書としては原文から離れすぎているからです。少なくともこれだけを読んでヘーゲルを読んだことにするのは難しいと言わざるをえません。しかし、研究者ならともなく、趣味でヘーゲルを読んでみたい方にとっては、他の訳より圧倒的に読みやすく、選択肢に入ってくると思います。
総合評価すると、私のおすすめは、バランスのとれた樫山訳です。読みやすくはないのですが、これは訳者ではなくヘーゲル本人の責任。原文の読みにくさに忠実に、なんとか読める日本語にするという苦心の賜だと思います。
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2.論理の学(大論理学)
大論理学については、武市訳、寺沢訳、山口訳があります。山口訳が出るまでは武市訳も現役でしたが、いまあえて武市訳にこだわる必要はないでしょう。以下では寺沢訳と山口訳を比較していきます。
寺沢訳には際だった特徴が四つあります。第一の特徴は、第一分冊の「存在論」を1812年の第1版から訳出していること。武市訳、山口訳ともに1831年の第2版を採用しており、そもそも底本が異なります。日本語で読める「存在論」初版はこの翻訳だけです。第二の特徴は、訳注の丁寧さ。研究論文に匹敵するほどの細かな注がつけられています。第三の特徴は、訳文の堅さです。日本語としては読みにくいが、ドイツ語の構文をどのように解釈したか明確にわかる、一切のごまかしを排した訳文となっています。そして最後に第四の特徴は、未完に終わっていること。訳者は「概念論」の「主観性」篇までで訳注をつけるのをやめ、公刊を断念していました。それを死語になって公刊したのが現在の第三分冊です。経緯についてはあとがきに訳者の奥様から詳しい報告があります。これにより、訳注は未完、また、訳文についても一部不完全なところが残っています。「概念論」については扱いに注意が必要です。
山口訳は、なるべく平易な日本語で新たに訳し直された新訳版。既に述べたように「存在論」は第2版を底本に採用しています。専門外の方や初学者が最初に手に取るのはこの版になることでしょう。なお、なるべく平易とはいっても、あまりに大胆な意訳は見られません。ヘーゲルの難しさはそのまま残しつつ、日本語としてなるべくよどみなく読めるようにした苦心の作といえるでしょう。
結局どちらを使えばいいか、というと、なかなか難しいところ。「存在論」については山口訳と寺沢訳は底本が異なるため全くの別物、「本質論」はほぼ同等で、山口訳の方が日本語はこなれているが、寺沢訳にの詳しい訳注も捨てがたい。「概念論」については、寺沢訳の訳注にも目を通したいが、未完でもあり、この点で山口訳のほうが信用できる。このような悩ましい状況になっています。価格等も考慮すれば、研究者は両方を手元に置き、そうでない読者は山口訳を用いる、ということになるのでしょうか。
まとめると、哲学科の学生を想定した第一選択としては樫山訳と山口訳の組み合わせが私のおすすめです。あとは個々人の興味や動機に応じて選んでゆくことになるでしょう。