書評:飯田洋介『ビスマルク』(中公新書, 2015年)
ビスマルクの評伝。近年、堅めの評伝型の新書が多く出ているが、本書は、ドイツ統一の立役者ビスマルクの生涯を扱った一冊である。専門外の新書なので専門家としての批評はできないが、ヘーゲル研究者の視点からみた魅力を記事にしてみる。
本書の面白さは、保守主義者であるビスマルクの観点から、ナショナリズムがどのような意味で「左翼思想」であったのかを実感できる点にある。現代ではナショナリズムは保守主義に直結するものとして連想される。しかし、19世紀においては、このナショナリズム=保守という図式は成り立たない。むしろナショナリズムは一人の君主が民を束ねる君主制支配からの脱却を象徴する思潮であり、自由主義と結びついて君主制を転覆させかねない左翼思想であった。ビスマルクは、保守主義者でありながらこのナショナリズムの時流を受け入れ、君主制を保持しながらドイツ国民国家を誕生させた人物である。読者はこのナショナリズムと保守主義の緊張関係をビスマルクの紆余曲折を通じて理解でき、またこれによって、プロイセン王室の支配を保ったままのドイツ統一が「上からの革命」と言われるゆえんをより深く理解することができる。
ところで、ヘーゲルやその後のヘーゲル左派の思想家・活動家達が生きた時代は、ビスマルクが生きた時代と重なっている。1815年生まれのビスマルクは、ヘーゲルの最晩年にあたる1827年から32年まで、ヘーゲルのいたベルリンのギムナジウムに通っており、31年に死去したヘーゲルと入れ違いに、34年にベルリン大学に入学している。また、1806年生まれのマックス・シュティルナー、1809年生まれのブルーノ・バウアー、1816年生まれのカール・マルクスといったヘーゲル左派に連なる論客たちとちょうど同世代にあたる。彼らと保守主義者ビスマルクの間には敵対関係があるのだが、ここで強調したいのはその点ではない。上で見た、ナショナリズムと保守主義の関係についてである。こと19世紀の政治思想を読む上では、ナショナリズムと保守主義は必ずしも結びついておらず、むしろナショナリズムは保守主義と緊張関係にある自由主義的な思潮であったということを押さえておく必要がある。本書を読むことで、これがどういうことか、実際のドイツにおける政治の動向に対応させて、当時の保守主義者ビスマルクの目から理解することができる。このような点において、この時代のドイツ史のみならず、ヘーゲルからヘーゲル左派へと連なる思潮に興味を持つものにとっても、本書は有用な示唆を与えてくれるであろう。
もちろんそのような特殊な興味を持たないものにとっても、近年よく話題になる「保守」と「ナショナリズム」の関係を考えるためのヒントとして、本書はおすすめできる。「愛国」が右派のプロパガンダに用いられ、左派系第一党の党首までもが「保守」を自称する時代である現代を、異なった観点から眺めてみることができるだろう。
ヘーゲル論理学に分け入る5冊
①海老澤善一『ヘーゲル『大論理学』』:「登場人物紹介」として
ヘーゲル論理学は、一般的な論理学と異なり、「論理的カテゴリーの発展」が物語のように描かれます。このため、論理学書ではなく哲学の古典を読むときの流儀で、はじめに大まかに全体像を把握しておくと読みやすくなります。これに役立つのが本書。この一冊をもってヘーゲル論理学の完全な理解を目指す、というのは本書の誤った使い方でしょう。むしろ、演劇を見る前の「登場人物紹介」として、軽く全体に目を通す気持ちで読むのがおすすめです。
②『加藤尚武著作集 第2巻 ヘーゲルの思考法』:ヘーゲル論理学の難しさに向き合う
『加藤尚武著作集』の中の一冊として公刊された本書。前半は単行本『哲学の使命』の採録で、特に論理学に特化した内容ではありません。論理学入門として有用なのは、後半の単行本未収録論文集の方。ここに、存在論から概念論に至るヘーゲル論理学についての加藤の論考がまとめて収録されています。帯にも解題から採用されている、「ヘーゲル論理学の主要な箇所について、哲学的に「深い」解釈をするまえに、何について、どういう内容を書いているのか明らかにする必要がある」という著者の言葉に、私は非常に共感しています。驚くべきことでしょうが、ヘーゲル論理学が何を論じているのか、200年以上が経った現在でも、全く明らかではないのです。この問題意識を前面に打ち出し、自らこの状況を変えようとした著者の論文の数々をまとめて読めるようになったことは、ヘーゲル論理学研究を着実に前進させる一歩となるでしょう。必読です。
④牧野広義『ヘーゲル論理学と矛盾・主体・自由』:マルクス主義的解釈を現代につなぐ
ヘーゲル論理学の具体的な内容が明らかでない、という問題に、伝統的に正面から向き合ってきたのは、マルクス主義的な解釈です。ヘーゲル自身の観念論を無視して唯物論として読み替えるという態度はアクロバティックではありますが、この解釈の伝統を全て単なる誤読として退けるのももったいない、そう言いたくなるだけの蓄積があります。そして、これを可能にするのが本書です。特に第I部「ヘーゲル論理学とは何か」は必読。おそらく図書館で多くの読者が出会ったであろう見田石介の論理学解釈について、問題点が丁寧に指摘され、そこから新たな解釈の可能性が開かれます。
③高山守『ヘーゲル哲学と無の論理』:大胆に解釈を投げ込む
私の恩師でもある高山守の博士論文をもとにした一冊。いましがた、ヘーゲル論理学の内実をまず明らかにすべきだという加藤尚武の言葉に共感すると書きましたが、たが、このように考えるようになったのは確実に高山先生の影響です。私は「無」を重視するという高山先生の解釈に必ずしも賛同するわけではありません。しかし、ヘーゲルの異様なまでに抽象的な文言をなるべく具体的な事例に則して解釈しようとする本書の方針に賛同し、この点を非常に尊敬しています。ヘーゲルが抽象的な文言を具体化するためのヒントをほとんど残していないため、ヘーゲル論理学研究はどうしても、大胆に自らの解釈を投げ込み、それがヘーゲルの文言に合うかを確かめる、という方法をとらざるを得ません。そうした方法に注目しながら読み進めることで、「ヘーゲル論理学の読み方」の体得に近づくことができるはずです。論理学解釈は後半部で展開されますが、そこだけをまず読む、という読み方も十分可能な一冊です。
「存在論」を第1版から訳出した唯一の書物としても重要な、寺沢訳『大論理学』。その訳注にも、単なる注にとどまらない、独立の注釈書と言ってもよいほどの価値があります。全体を通読するというタイプの使い方は難しいものの、『大論理学』の特定の箇所について知りたいとき、寺沢の訳注は常に有用な示唆を与えてくれます。
おわりに
ヘーゲルの主要著作、どの訳で読む?
ヘーゲルの著作は出版の事情も複雑で、読む前にこれを整理して押さえるだけでも一苦労です。しかも訳書も複数あり、比較して選択しなければなりません。この記事では、『精神現象学』と『大論理学』に絞って、邦訳を比較していきます。
0.基礎知識
ヘーゲル生前の公刊著作は、『精神現象学』『論理の学(大論理学)』『エンツュクロペディー(小論理学・自然哲学・精神哲学)』、『法の哲学』の四つしかありません。ただし、『論理の学』は「存在論」「本質論」『概念論」の3分冊となっており、「存在論」のみ第1版と第2版があります(ヘーゲルが改訂途中で亡くなったため)。
ちなみに、この記事で詳しく扱いませんが、『エンツュクロペディー』は二度改版され、第1版から第3版まであります。『エンツュクロペディー』と『法の哲学』には「補遺」つきのものが存在します。この「補遺」はヘーゲルの死後に弟子が年代の異なる講義ノートをつぎはぎしてつくったもので、ヘーゲルの真の著作とは見なされなくなってきています。
公刊著作とは別に、美学、宗教哲学、歴史哲学、哲学史については、講義録のみが残されています。この講義録も、古くから普及していた版はヘーゲルの死後に弟子が編集したもので、一次資料としての価値が疑問視されています。また、編集前の講義ノートも公刊が進んでおり、また、著作と重なる内容(論理学、自然哲学、法哲学など)の講義ノートも残されています。このほか、草稿も多く公刊され、邦訳もされています。しかしこれらについては非常に煩雑になるため、この記事ではさしあたり割愛します。
1.精神現象学
多くの邦訳が存在するのが精神現象学ですが、ここでは金子訳(岩波書店)、樫山訳(平凡社ライブラリー)、長谷川訳(作品社)をメインに紹介します。
研究者の間では、金子訳が訳注とともに高い評価を受けています。しかし現在では古本としてしか入手できず、ヘーゲルを専門的に研究する者にとっては必携でも、それ以外の方が手元におくことはあまり現実的ではないでしょう。また、訳語・訳注ともに、さすがに少し古くなってきていることも否めません。
唯一のソフトカバーで、もっとも手に入れやすいのが樫山訳です。樫山役は、誤訳も一部にはありますが許容範囲で、おおむね手堅い訳です。哲学科の院生や、ヘーゲルを専門としない研究者の方が使うのに適しています。もちろんヘーゲル研究者にとっても、ライブラリー版の取り回しのしやすさから使いやすい版といえます。
長谷川訳は、大胆な意訳で知られ、研究者からは敬遠されています。私も、長谷川氏の入門書の類いは高く評価していますが、この訳業については、帯に短したすきに長し、という印象を持っています。解説書としては説明不足である一方、純粋な訳書としては原文から離れすぎているからです。少なくともこれだけを読んでヘーゲルを読んだことにするのは難しいと言わざるをえません。しかし、研究者ならともなく、趣味でヘーゲルを読んでみたい方にとっては、他の訳より圧倒的に読みやすく、選択肢に入ってくると思います。
総合評価すると、私のおすすめは、バランスのとれた樫山訳です。読みやすくはないのですが、これは訳者ではなくヘーゲル本人の責任。原文の読みにくさに忠実に、なんとか読める日本語にするという苦心の賜だと思います。
- 作者: G.W.F.ヘーゲル,Georg Wilhelm Friedrich Hegel,樫山欽四郎
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1997/07/01
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- 作者: G.W.F.ヘーゲル,G.W.F. Hegel,長谷川宏
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2.論理の学(大論理学)
大論理学については、武市訳、寺沢訳、山口訳があります。山口訳が出るまでは武市訳も現役でしたが、いまあえて武市訳にこだわる必要はないでしょう。以下では寺沢訳と山口訳を比較していきます。
寺沢訳には際だった特徴が四つあります。第一の特徴は、第一分冊の「存在論」を1812年の第1版から訳出していること。武市訳、山口訳ともに1831年の第2版を採用しており、そもそも底本が異なります。日本語で読める「存在論」初版はこの翻訳だけです。第二の特徴は、訳注の丁寧さ。研究論文に匹敵するほどの細かな注がつけられています。第三の特徴は、訳文の堅さです。日本語としては読みにくいが、ドイツ語の構文をどのように解釈したか明確にわかる、一切のごまかしを排した訳文となっています。そして最後に第四の特徴は、未完に終わっていること。訳者は「概念論」の「主観性」篇までで訳注をつけるのをやめ、公刊を断念していました。それを死語になって公刊したのが現在の第三分冊です。経緯についてはあとがきに訳者の奥様から詳しい報告があります。これにより、訳注は未完、また、訳文についても一部不完全なところが残っています。「概念論」については扱いに注意が必要です。
山口訳は、なるべく平易な日本語で新たに訳し直された新訳版。既に述べたように「存在論」は第2版を底本に採用しています。専門外の方や初学者が最初に手に取るのはこの版になることでしょう。なお、なるべく平易とはいっても、あまりに大胆な意訳は見られません。ヘーゲルの難しさはそのまま残しつつ、日本語としてなるべくよどみなく読めるようにした苦心の作といえるでしょう。
結局どちらを使えばいいか、というと、なかなか難しいところ。「存在論」については山口訳と寺沢訳は底本が異なるため全くの別物、「本質論」はほぼ同等で、山口訳の方が日本語はこなれているが、寺沢訳にの詳しい訳注も捨てがたい。「概念論」については、寺沢訳の訳注にも目を通したいが、未完でもあり、この点で山口訳のほうが信用できる。このような悩ましい状況になっています。価格等も考慮すれば、研究者は両方を手元に置き、そうでない読者は山口訳を用いる、ということになるのでしょうか。
まとめると、哲学科の学生を想定した第一選択としては樫山訳と山口訳の組み合わせが私のおすすめです。あとは個々人の興味や動機に応じて選んでゆくことになるでしょう。
書評:『ワードマップ現代現象学』(新曜社、2017年)
「現象学は、私たちの経験の探求です」と導入される本書は、フッサールからハイデガーを経てメルロ-ポンティやレヴィナスに至る、という旧来の「現象学入門」のスタイルからは大きく逸脱している。目次を眺めればわかるとおり、志向性、存在、価値、芸術等々のトピックベースで、現象学的なアプローチによる現代的な議論が展開される。まさに「現代現象学」の名にふさわしい入門書である。ちなみに、後書きにもあるとおり、私も一部の章については草稿段階で読ませていただいたことがあるが、全体に目を通したのは書籍になってからである。
ヘーゲルに挫折しないための5冊
1.ヘーゲル哲学入門の難しさ
西洋哲学に興味のある者でその名を知らぬ者はいない、と言ってもよい大哲学者ヘーゲル。しかし、彼の思想を学ぶことには独特の困難が伴います。
1.1 文章が難解すぎる
ヘーゲルの文章は非常に難解で、西洋哲学の中でもトップレベル。ヘーゲル自身も書簡でうまく書けないと嘆いており、専門の論文でも、例えば英語ならdense(濃縮された)やnotrious(悪名高い)と言った表現に何度も出会うほど。いきなりヘーゲルの著作を開いて、数行で挫折してしまった、という方も少なくないでしょう。
1.2 著書が手に入りにくい
哲学の古典と言えばまず思い浮かべる人も多いであろう岩波文庫。その岩波文庫で現在絶版になっていないヘーゲルの著作は、『歴史哲学講義』のみ。ヘーゲルの歴史哲学は確かに有名なのですが、西洋中心主義的な進歩史観が大々的に述べられており、ステレオタイプ的なヘーゲルのイメージを確認することはできても、ヘーゲル哲学本来の面白さに触れることは難しいのです。
ヘーゲル哲学をきちんと学ぼうと思ったら、何と言っても主著の『精神現象学』と『大論理学』を読まなければなりません。しかし、『精神現象学』は最も手に取りやすい平凡社ライブラリー版で、上下合わせて3500円ほど。『大論理学』に至っては、一冊5000円を超えるハードカバー三巻本でしか手に入らない状況です。ヘーゲルの著作は、知名度の割には、初学者がアクセスしづらい状況にあります。
1.3 研究書が多すぎる
ヘーゲルは日本で盛んに研究されてきた研究者で、多くの研究が蓄積されています。それ自体はよいことなのですが、新たに学び始めようとする者にとっては、これがかえってハードルになりかねません。なにしろアマゾンで検索しても、図書館のドイツ・オーストリア哲学の棚の前に言ってみても、新旧の研究書がずらりと並んでいる状態。しかも適当に手に取ってみると、難解なヘーゲル用語が並んでいて予備知識がなければ読めないような本もたくさん。何から手をつけて良いのか、学部生時代の私がそうだったように、困惑してしまうでしょう。
2.入門のための5冊
というわけで、この記事では、「今、ヘーゲルに入門したい人」が何から読むべきか、あえて5冊に限定して紹介してみたいと思います。5冊としたのは、一人の人間がモチベーションを保って読み通せる現実的な冊数だからです。その際、ヘーゲルの全体像がつかめることを条件とします。ただし、これらの条件のせいで選に漏れた著作についても、必要に応じて紹介していきます。なお、著者については敬称略とします。
①長谷川宏『新しいヘーゲル』(講談社現代新書):新書で全体像をつかもう
- 作者: 長谷川宏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/05/20
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まずは新書から。『新しいヘーゲル』は、ヘーゲルの翻訳でも知られる在野研究者の大御所、長谷川宏の著作。ヘーゲルの著作の長谷川訳については、かなり大胆な意訳が施されており、専門家の間では否定的な意見もよく聞かれます。しかし、長谷川の平易な語り口が、入門者にとって有益であることは間違いありません。私自身、大学2年生のころ、長谷川『ヘーゲル『精神現象学』入門』を読んで、初めてヘーゲルが何を言っているかわかった、という経験をしたこともあります(この時期では「ヘーゲルの全体像がつかめる」という条件から外れるため選外)。
『新しいヘーゲル』は、新書サイズで、多岐にわたるヘーゲル哲学の全体像を、平易に示す、という挑戦的とも言える一冊。その分全体に薄味の叙述にはなっていますが、この一冊に目を通しておくことで、これからいろいろと勉強するうえで頭の中に地図を作っておけるはずです。
なお、同じく新書サイズでのヘーゲル入門には、権左武志『ヘーゲルとその時代』もあります。こちらはタイトル通り、歴史的な事項との関連やヘーゲルの国家観・歴史観について、ヘーゲルの生涯をたどりながら追うことができる一冊。しかし、歴史的事項との関連や実践哲学にウェイトを置いたアプローチであり、理論哲学については割愛されているため、今回は選外としました。逆にそういった点に興味がある方にはこちらもおすすめ。
②加藤尚武「ヘーゲル」、『哲学の歴史 7:理性の劇場』(中央公論新社):ヘーゲルの実像に迫る
- 作者: 加藤尚武
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2007/07/01
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中央公論新社から10年程前に公刊された『哲学の歴史』シリーズ。同シリーズを読むときには、最初から順番に読んでいくというより、気になった哲学者についての章を一冊の本のようにしてつまみ食いしてゆくのがおすすめです。その中の「ヘーゲル」の章は、日本で最も重要なヘーゲル研究者、加藤尚武によって書かれていいます。
加藤の文章の魅力は、ヘーゲルの欠点をも一切手加減せずに指摘する、ユーモアたっぷりの語り口にあります。例えば「ヘーゲルで完成している哲学思想はない」だとか、「ここには「論理の展開」などというものは何もない。イメージがあるだけというのが実情であろう」、あるいは「「ドイツ観念論」の中に人類の知的遺産として永遠に記憶されるべき一行の言葉があるかどうかも、おぼつかない」といった辛辣な、しかしどこか軽快なヘーゲル批判には、ニヤリとせずにはいられません。
もちろんこれが可能なのは、その裏にヘーゲルへの深い理解と、自らヘーゲルとともに思索し是々非々で臨むという強い意志が潜んでいるからです。読み進めるうちに、「西洋近代哲学の完成者」というヘーゲルの虚像が打ち砕かれ、より興味深い、格闘する哲学者ヘーゲルの実像へと引き込まれることでしょう。
③滝口清栄『ヘーゲル哲学入門』(社会評論社):ヘーゲルの生涯から思想へ
2016年に公刊された本書では、ヘーゲルの思想の発展を編年体で追うことと、それぞれの著作の内容をかみ砕いて示すことの両方が実されています。滝口先生には私も個人的に大変お世話になっているのですが、柔和なお人柄を彷彿とさせるとっつきやすい語り口も本書の魅力の一つです。
本書の最大の特徴は、伝記的な事項についてもかなり詳しく踏み込んだ叙述がなされていることでしょう。ヘーゲルの思想の内容についてわからないところが残ったとしても、伝記として楽しんで読み進めることができます。同時に、著作の内容もかなり細かく紹介され、各著作のキーワードを知ることができます。初学者にはそれでも凝縮された文体に感じられるかも知れませんが、入門者の段階を超えて、各自の興味に応じた勉強をすすめるときにどの本に進むべきか、考えるヒントとなるでしょう。
④岩崎武雄『カントからヘーゲルへ』(東京大学出版会):「ドイツ古典哲学」の中のヘーゲル
哲学史のなかでも躓きやすいカント以後のドイツ哲学。1977年発行の本書は、その中心となる4人の思索を俯瞰する書物として、今でも最初に参照されるべき一冊です。(ちなみにこの時代の哲学は「ドイツ観念論」と呼ばれてきましたが、近年では、観念論に限らないこの時代のドイツの哲学を全体として指す呼称として「ドイツ古典哲学」が定着しつつあります。)
カントを主要な研究対象としていた岩崎ですが、この著作ではフィヒテ、シェリング、ヘーゲルにも、一人の哲学者として真摯に向き合い、自分なりの合理的な解釈を作り出そうとします。ヘーゲルについても、「全く価値がない」という評価と「非常に重要な哲学者」という評価の両方があるという出発点から、ヘーゲルに意義があるとしたらそれはどのような意義なのかへと、思索が展開されていきます。単なる紹介にとどまらない哲学の書として、時代に左右されない魅力を持つ一冊です。
⑤高山守『ヘーゲルを読む』:ヘーゲルとともに哲学しよう
- 作者: ?山守
- 出版社/メーカー: 左右社
- 発売日: 2016/09/28
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最後の1冊は、私の恩師でもある高山守の近著で、放送大学のテキストを元に大幅な改稿を加えた一冊。
高山のヘーゲル論の魅力は、ヘーゲルの晦渋な叙述を自らの哲学的関心と関連付けながら、整合的な解釈を構築しようとする態度にあります。この哲学史研究のエッセンスを、コンパクトな入門書のスタイルでも犠牲にせず、可能な限り展開しているのが本書。ヘーゲルを読み、それについて自分で考え、自分なりの解釈を提示する。本書において読者は、そうしたヘーゲル研究の目指すべきあり方の好例に触れることができます。
3. 挫折しないためのアドバイス
ヘーゲルは、文体が読みにくく、内容も多岐にわたり、しかも「カント以後の哲学」、「フランス革命後の哲学」といった、哲学史・世界史的な文脈を背負った哲学者です。このような哲学者について、最初から一気に全部を理解しようとするのは得策ではありません。まずは全体像をつかむことで頭の中に「地図」を作り、そこからさらに個別の著作などに進んでいくのが理想的です。
また、ヘーゲル自身の叙述の難しさから、ヘーゲルに関する解説書や研究書も、非常に難しく、初学者にとっては何を言っているかわからない箇所も多々混在している、というのが実情です。そのような箇所に出会ったら、立ち止まらずに、キーワードだけを拾って次に進むことです。全体像がわかり、個々のキーワードが何を指すのかわかってくれば、自ずとわかるようになるということもあります。これは、この記事で紹介した入門書についてもきっと例外ではないでしょう。すでに専門的な知識を持っている私には気づけない躓きの石が潜んでいることも十分ありえます。その場合には、とりあえず気にせず先に進んでみることです。そして十分な知識がついたら、もう一度戻ってくればよいのです。
反転授業で学生に初回から予習してもらう工夫
講義内容をビデオ教材で予習させ、授業時間中には演習を行う「反転授業」。この授業形式の問題点として、学生が初めのうちは予習をしてこない、ということが挙げられます。これは映像コンテンツを用いた反転授業に限らず、予習を要求する授業全てに言えることでしょう。真面目に予習をするメリットがあるかないかわからない状況で、予習をしてくる気にはならない、という学生の気持ちも理解できます。
これを解決する工夫として、私の授業では、初回の授業の中で予習を「体験」してもらっています。
私の担当授業では、初年次の演習等、一部の科目で予習を課しています。また、「LTD話し合い学習法」をアレンジした授業も行なっています。これらの授業は、学生が予習をしてきていることを前提にしており、予習をしている学生の割合が7割を切ると、授業の実施自体が困難になります。このため、予習の必要性を早い段階でわかってもらう工夫が必要になりました。
反転授業関連の文献や講演では、最初の数回は予習をしてこない学生に痛い目を見せるしかない、等と言われることがあります。これは確かに一つの解決法で、この方法を用いたとしても、反転授業にはそれを補って余りある効果があるのも事実です。しかし、荒療治であるという感は否めません。
これに対して、私は、初回のガイダンスの授業の後半を予習とそれを使った授業の「体験」にあてることで、予習が必要であることを学生に実感してもらう、というやり方を取っています。少し詳しく書くと、以下の通りです。
- 初回授業前半、通常のガイダンスの段階で、予習が必要であることを強調しておく。
- 実際に予習してもらうのと同様の課題に30分程度取り組ませる(分量の調整は必要)。
- この課題は本来予習として取り組むものであること、実際の授業は、この後のワークからいきなりスタートすることを説明する。
- 実際に、予習を前提したワークに取り組ませる。
この後で、「なぜ予習が必要だとあんなに強調したかわかってもらえましたか?」と尋ねると、学生たちは苦笑しながらも理解してくれます。予習していない状態での授業を90分間体験させるより、お互いに負担や無駄を軽減しつつ予習の必要性をわかってもらえる方法だと感じています。
映像教材を使った反転授業の場合は、その場で各自に映像を見てもらうのは難しいと思います。しかしその場合でも、初回授業の中では文章教材等で予習をさせ、「実際の自宅学習ではこれに相当するような映像を見てもらいます」という解説を加えておけば問題ないでしょう。